きを最後にもたらしてきた使者の田舎《いなか》娘を、彼はじっと見送った。
彼女の姿が見えなくなると、彼はこんどこそまったく異境の孤客となった。彼は母の手紙と恋しい肩掛とを手にしていた。肩掛を胸に抱きしめて、それから手紙を開こうとした。しかし彼の手は震えた。いかなることが読まれるだろうか? いかなる苦しみをそこに見出すだろうか?……いや、すでに聞こえるような気がするその悲しいとがめには、堪えることができないだろう。引き返して帰ることにしよう。
彼はついに手紙を開いた。そして読んだ。
[#ここから2字下げ]
私の憐《あわ》れな子よ、私のことを心配しないでください。私は物わかりよくしましょう。神様が私を罰せられたのです。私は自分のためばかりを思ってお前を引き止めてはいけないのでした。パリーへお行きなさい。たぶんその方がお前のためにはいいでしょう。私のことは気にしないでください。どうにかやってゆくことができます。いちばん肝心なのは、お前が幸福であることです。私はお前を抱擁します。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]母より
[#ここから2字下げ]
できる時には手紙をください。
[#ここで字下げ終わり]
クリストフは鞄《かばん》の上にすわって泣いた。
駅夫がパリー行きの乗客を呼んでいた。重い列車が轟然《ごうぜん》たる音をたてて到着しかけていた。クリストフは涙をぬぐい、立ち上がってみずから言った。
「やむを得ない。」
彼はパリーの方面の空をながめた。一面に薄暗い空は、その方面ではいっそう暗澹《あんたん》としていた。陰暗な深淵《しんえん》のようであった。クリストフは胸迫る気がした。しかしみずからくり返した。
「止むを得ない。」
彼は汽車に乗った。そして窓からのぞき出しながら、気味悪い地平線をながめつづけた。
「おおパリーよ!」と彼は考えていた。「パリーよ! 僕を助けてくれ。僕を救ってくれ。僕の思想を救ってくれ!」
薄暗い霧は濃くなっていった。クリストフの後方には、去ってゆく故国の上には、両の眼ほどの――ザビーネの両の眼ほどの――薄青い空の片隅《かたすみ》が、重々しい雲の切れ目から、寂しげに微笑《ほほえ》み出して、そのまま消えていった。汽車は出た。雨が降った。夜になった。
底本:「ジャン・クリストフ(二)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年7月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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