に頭を壁にぶっつけてるばかりではなかったか。知力のすぐれた者は、他人を批判し、ひそかに他人を嘲笑《あざわら》い、多少他人を軽蔑《けいべつ》しはする。しかし彼も、他人と同様なことを行なって、ただ少しよく行なってるのみである。そういうのが、おのれの他人の上に立たせる唯一の方法である。思想は一個の世界であり、行為は別個の世界である。おのれを思想の犠牲となる必要がどこにあろう? 真正に考える、それはむろんのことだ。しかし真正に口をきく、それがなんの役にたとう? 人間はかなり愚かなもので、真実を堪えることができないからといって、彼らに真実を強《し》いる必要があろうか。彼らの弱点を容認し、それに折れ従うようなふうを装《よそお》い、人を軽蔑する自分の心の中でわが身の自由を感ずること、そこにこそひそかな享楽がないであろうか。それは怜悧《れいり》な奴隷《どれい》の享楽だと、言わば言うがいい。しかし世の中では結局奴隷となるのほかはない以上、同じ奴隷となるならば、自分の意志で奴隷となって、滑稽《こっけい》無益な争闘を避けた方がよい。奴隷のうちで最もいけないのは、おのれの思想の奴隷となって、それにすべてをささげることである。自己を妄信《もうしん》してはいけない。――彼女は、クリストフがどうもそう決心しているらしく思われるとおりに実際においても、ドイツ芸術とドイツ精神との偏見にたいして一徹な攻撃的の道を固執するならば、彼はすべての人を敵に回し、保護者をも敵に回すようになるだろうということを、明らかに見て取っていた。彼は必ずや敗亡に終わるに違いなかった。何故に彼が自分自身にたいして奮激し、好んで身を破滅させるような真似《まね》をするかを、彼女は了解できなかった。
 彼を理解せんがためには、成功は彼の目的ではなく、彼の目的はその信念であるということをもまた、彼女は理解しなければならなかったろう。彼は芸術を信じ、おのれ[#「おのれ」に傍点]の芸術を信じ、おのれ自身を信じ、しかも、あらゆる利害問題のみならずおのれの生命よりもさらにすぐれた現実に対するように、それを信じていた。彼が彼女の意見に多少いらだって、率直に語気を強めながら右のことを言い出す時、彼女はまず肩をそびやかした。彼女は彼の言葉を真面目《まじめ》に取らなかった。そしてそこに、兄の口から聞き慣れてるのと同じような大言壮語があると思った。彼女の兄は時々、途方もない荘厳な決心を言明しながら、それを実行しないようによく用心していたのである。ところが次に、クリストフがほんとうにそれらの言葉を妄信《もうしん》していることを見て取ると、彼女は彼を狂者だと判断して、もはや、彼に興味を覚えなかった。
 それ以来彼女はもはや、彼によく思われるように見せかけようとは努めなかった。ありのままの自分をさらけ出した。そして彼女は、最初の様子にも似ず、またおそらく彼女が自分で思ってるよりも、ずっとドイツ的であり、しかも平凡なドイツ女であった。――イスラエル民族に非難するのに、彼らがいかなる国民にも属さないで、種々の民衆のうちに居を定めても少しもその影響を被《こうむ》らず、特殊な同一性質を有する一民衆を、ヨーロッパにまたがって形成してるということをもってするのは、まさしく不当である。実際、通過する国々の痕跡《こんせき》を、イスラエル民族ほど容易に受けやすい民族は他にない。フランスのイスラエル人とドイツのイスラエル人との間には、多くの共通な性格がありはするけれども、なおいっそう多くの異なった性格がある。それは彼らの新しい祖国に起因するのである。彼らは驚くほど速やかに、新しい祖国の精神的習慣を、実を言えば精神よりも多くその習慣を、取り入れてしまう。ところが習慣というものは、あらゆる人間にあっては第二の性質であるが、大多数の人間にあっては唯一無二の性質となるから、その結果、一つの国に土着せる公民の多数が、深い正当な国民的精神をみずからは少しももたないでいて、イスラエル人にそれが欠けていると非難するのは、きわめて不都合なことと言わなければならない。
 女は常に、外的影響に、より敏感であり、生活条件に順応しそれに従って変化するのが、より迅速《じんそく》ではあるが――イスラエルの女は、全ヨーロッパを通じて、住んでる国土の肉体的および精神的の風潮を、しばしば大袈裟《おおげさ》に採用するが――それでもなお、民族固有の面影を、その濁った重々しい執拗《しつよう》な風味を、失うものではない。クリストフはそれに驚かされた。彼はマンハイム家で、ユーディットの伯母《おば》たちや従姉妹《いとこ》たちや友だちらに出会った。彼女らのうちのある顔は、鼻に近い鋭い眼や、口に近い鼻や、きつい顔立ちや、褐《かっ》色の厚い皮膚の下の赤い血などをもってして、いかにもドイツ離
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