トフは最後まで食堂に残っていたが、やがて出て行こうとすると、先刻《さっき》あんなに面白がって彼の言葉を聞いていた青年から、敷居ぎわで言葉をかけられた。彼はまだその青年を眼にとめていなかった。青年はていねいに帽子を脱ぎ、笑顔をし、自己紹介の許しを求めた。
「フランツ・マンハイムという者です。」
彼はそばから議論を聞いていた無作法を詫《わ》び、相手どもを粉砕したクリストフの手腕を祝した。そしてそのことを考えながらまだ笑っていた。クリストフはうれしくもあるがまだ多少|狐疑《こぎ》しながら、その様子をながめた。
「ほんとうですか、」と彼は尋ねた、「僕をひやかすんじゃないんですか。」
相手は神明にかけて誓った。クリストフの顔は輝きだした。
「それでは、僕の方が道理だと君は思うんですね。君も僕と同じ意見ですね?」
「まあお聞きなさい、」とマンハイムは言った、「実を言えば、僕は音楽家ではありません、音楽のことは少しも知りません。僕の気に入る唯一の音楽は――別にお世辞を言うわけではないが――君の音楽です。……というのも、僕はあまり悪い趣味をもってる男ではないことを、君に証明したいので……。」
「そんなことは、」とクリストフはうれしがりながらも疑わしげに言った、「証拠にはならない。」
「手きびしいですね。……よろしい……僕も同意しよう、それは証拠にはならないと。それで、ドイツの音楽家らにたいする君の説を、批評するのはよそう。だがいずれにしても、一般のドイツ人、古いドイツ人、ロマンチックの馬鹿者ども、彼らにたいする君の説はほんとうだ。酸敗した思想をいだき、涙|壺《つぼ》のような情緒に浸り、われわれにも賛美させようとして、やたらにくり返すあの古めかしい文句、過去未来を通じて常に存在し[#「過去未来を通じて常に存在し」に傍点]、今日の掟であるがゆえに明日の掟たるべき[#「今日の掟であるがゆえに明日の掟たるべき」に傍点]、かの永久の昨日[#「かの永久の昨日」に傍点]……!」
彼はシルレルの有名な一節のある句を誦《しょう》した。
[#ここから3字下げ]
……永久《とわ》なる昨日、
そは常に在りき、また常にめぐり来たる……。
[#ここで字下げ終わり]
「彼がまっ先だ!」と彼は暗誦《あんしょう》の途中で言葉を切って言った。
「だれが?」とクリストフは尋ねた。
「これを書いた旧弊家さ。」
前へ
次へ
全264ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング