ていた。
 しかし、クリストフの妄言《ぼうげん》に最も憤慨したのは、ファゴットのスピッツであった。彼はその音楽上の本能的|嗜好《しこう》をよりも、生来の屈従的精神をさらにはなはだしく傷つけられた。ローマのある皇帝は、立ちながら死にたがったこともあったが、スピッツは彼の平素の姿勢どおり、腹|匐《ば》いに平伏して死にたがっていた。腹匐いが彼の生来の姿だった。すべて官僚的なもの、定評あるもの、「成り上がった」もの、そういうものの足下にころがって歓《よろこ》んでいた。そして奴僕《どぼく》の真似《まね》をすることを邪魔されると、我れを忘れていらだつのだった。
 それゆえに、クーは慨嘆し、ワイグルは絶望的な身振りをし、クラウゼは取り留めもないことを言い、スピッツは金切り声で叫んでいた。しかしクリストフは自若として、さらにいっそう声高にしゃべりたて、ドイツとドイツ人とに関するひどい意見を述べていた。
 隣りの食卓で一人の青年が、笑いこけながらそれに耳を傾けていた。縮らしたまっ黒な髪、怜悧《れいり》そうな美しい眼、太い鼻、しかもその鼻は、先端近くになって、右へ行こうか左へ行こうか決しかねて、まっすぐに行くよりも同時に左右両方へ広がってい、それから厚い唇《くちびる》、敏活な変わりやすい顔つき、その顔つきで彼は、クリストフの言うことに残らず耳を傾け、その唇の動きを見守《みまも》り、その一語一語に、面白がってる同感的な注意を示し、額《ひたい》や顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》や眼尻《めじり》や、または小鼻や頬《ほお》へかけて、小さな皺《しわ》を寄せ、相好《そうごう》をくずして笑い、時とすると、急にたまらなくなって全身を揺ぶっていた。彼は話に口出しはしなかったが、一言も聞き落さなかった。クリストフが大言壮語のうちにまごつき、スピッツからじらされ、憤激のあまり渋滞し急《せ》き込み口ごもり、やがて必要な言葉を――岩石を見出して、敵を押しつぶすまでやめないのを見ると、彼はことに喜びの様子を示した。そしてクリストフが情熱に駆られて、おのれの思想の埒外《らちがい》にまで飛び出し、とてつもない臆説《おくせつ》を吐いて、相手を怒号させるようになると、彼は無上に面白がっていた。
 ついに一同は、各自に自分の優秀なことを、感じたり肯定したりするのに飽きて、袂《たもと》を分かった。クリス
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