意した。彼は自分の言うことを彼女が聞いていないのを知っていた。しかしそれを気に止めなかった。彼は自分自身にたいして語ってるのであった。
二人は微笑《ほほえ》みながら顔を見合っていた、彼は語り、彼女はよく耳も傾けずに。彼女は息子《むすこ》を自慢にしていたが、その芸術上の抱負にはたいして重きを置いていなかった。彼女は考えていた、「この人は幸福なのだ、それがいちばん肝心なことだ。」――彼は自分の話にみずから酔いながら、母のなつかしい顔を、頸《くび》には黒い襟巻《えりまき》を緊《ひし》とまとい、白い髪をし、若々しい眼で自分をやさしく見守《みまも》り、寛容にゆったりと落ち着いてる母の、その顔をながめていた。彼女の心のうちの考えがすっかり読み取られた。彼は冗談に言ってみた。
「お母さんにとってはどうでもいいことなんでしょうね、僕の話してることなんかは。」
彼女は軽く反対をとなえた。
「いいえ、いいえ!」
彼は彼女を抱擁した。
「なにそうですよ、そうですよ! まあ言い訳なんかしなくてもいいんですよ。お母さんの方が尤《もっと》もです。ただ、僕を愛してください。僕は人に理解してもらわなくてもいいんです。――あなたにも、だれにも。もう今じゃ、だれもいりません、何もいりません。自分のうちに何もかももってるんです……。」
「そうら、」と彼女は言った、「こんどはまた別な狂気|沙汰《ざた》になってきた!……だがそうならなければならないんなら、まだこんどの方がよい。」
おのが思想の湖上に漂う心楽しい幸福!……舟底に横たわり、身体は日の光に浴し、顔は水の面を走るさわやかな微風になぶられて、彼は宙に浮かびながらうとうととしている。寝そべった身体の下には、揺らめく小舟の下には、深い水が感ぜられる。手はひとりでに水に浸される。彼は起き上がる。子供のおりのように、舟縁《ふなべり》に頤《あご》をもたして、過ぎてゆく水をながめる。稲妻のように飛び去ってゆく、不思議な生物の輝きが見える……また他《ほか》のが、次にまた他のが……。いつもそれぞれ異なった生物である。彼は自分のうちに展開してゆく奇怪な光景に笑っている。自分の思想に笑っている。思想をどこにも固定させる必要はない。選ぶこと、それら数限りない夢想のうちになんで選択の要があろう? まだ時間は十分ある。……あとのことだ!……好きな時に網を投じさえすれ
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