思われた。苦熱の一夜を明かした後、足を清冽《せいれつ》な水に洗われ、身体を夏の朝の微風になでられながら、その湖水のほとりに立っていたのだ。彼は飛び込んで泳ぎ出した。どこへ行くのかわからなかった。しかもそれはほとんどどうでもいいことだった。ただ当てもなく泳ぎ回るのが愉快だった。彼は笑いながら、自分の魂の無数の音に耳傾けながら、黙っていた。魂には無数の生物がうごめいていた。何にも見分けられなかった。頭がくらくらした。ただ眩《まばゆ》いほどの幸福ばかりを覚えた。自分のうちにそれらの見知らぬ力を感じてうれしかった。そして自分の能力をためすことは不精げに後《あと》回しとして、まず内心に咲き乱れてる花に誇らかに酔って、陶然としてしまった。数か月来押えつけられていたのが、にわかに春が来たように、一時に咲きそろった花であった。
母は彼を食事に呼んでいた。彼は降りていった。一日戸外で暮らしたあとのように、頭が茫然《ぼうぜん》としていた。しかし彼のうちには深い喜悦の色が輝いていた。ルイザは彼にどうしたのかと尋ねた。彼は答えなかった。母の胴体をとらえて、スープ鍋《なべ》から湯気が立っている食卓のまわりを、無理に一回り踊らした。ルイザは息を切らして、彼を狂人だと呼びたてた。それから彼女は手を打った。
「まあ!」と彼女は気懸《きがか》りそうに言った、「また恋したのに違いない!」
クリストフは笑いだした。ナフキンを宙に投げた。
「恋だって!……」と彼は叫んだ、「おやおや……嘘《うそ》です、嘘です、もうたくさんだ。安心していらっしゃい。もうするもんですか、一|生涯《しょうがい》しません!……あああ!」
彼は水をなみなみと一杯飲み干した。
ルイザは安心して彼をながめ、頭を振り、微笑《はほえ》んでいた。
「当てにはならない酔っ払いの約束だね、」と彼女は言った、「まあ晩までのことでしょうよ。」
「それだけでも何かになるわけですよ。」と彼は上|機嫌《きげん》に答えた。
「なるほどね。」と彼女は言った。「だがいったい、どうしてお前さんはそううれしがってるんですか?」
「僕はうれしんです。それっきりです!」
彼は食卓に両肱《りょうひじ》をつき、彼女と向かい合いにすわって、今後どんなことをするか、それを彼女に話してやった。彼女はやさしい疑念の様子でそれに耳をかし、スープが冷《さ》めてしまうと静かに注
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