はかえって独創的たる最上の方法であることを、またジャン・クリストフは過去にも未来にもただ一度しか存在しないということを、彼は傲慢《ごうまん》にも信じていた。青春の素敵な無遠慮さで、まだ何物もできあがったものはないように思っていた。すべてが作り上げるべき――もしくは作り直すべき――もののように思えた。内部充実の感情は、前途に無限の生命を有するという感情は、過多なやや不謹慎な幸福の状態に彼を陥れていた。たえざる喜悦。それは喜びを求める要もなく、また悲しみにも順応することができた。その源は、あらゆる幸福と美徳との母たる力の中にあった。生きること、あまりに生きること!……この力の陶酔を、この生きることの喜悦を、自分のうちに――たとい不幸のどん底にあろうとも――まったく感じない者は、芸術家ではない。それが試金石である。真の偉大さが認められるのは、苦にも楽にも喜悦することのできる力においてである。メンデルスゾーンやブラームスの輩は、小雨や十月の霧などの神たる輩は、かかる崇高な力をかつて知らなかったのである。
 クリストフはその力を所有していた。そして無遠慮な率直さで自分の喜びを見せつけていた。少しも悪意があるのではなかった。他人とそれを共にすることをしか求めていなかった。しかしその喜びをもたない大多数の人々にとっては、それは癪《しゃく》にさわるものであるということを彼は気づかなかった。そのうえ彼は、他人の気に入ろうと入るまいと平気であった。彼はおのれを確信していた。自分の信ずるところを他人に伝うることは、わけもないことのように思われた。彼はいわゆる楽譜製造人ら一般の貧弱さに、自分の豊富さを比較していた。そして自分の優秀なことを認めさせるのは、きわめて容易なことだと考えていた。容易すぎるくらいだった。おのれを示しさえすればよかった。
 彼はおのれを示した。

 人々は待ち受けていた。
 クリストフは自分の感情をもったいぶって隠しはしなかった。事物をあるがまま見ようと欲しないドイツの虚偽を悟って以来、作品や作家にたいするいかなる定評をも顧慮するところなく、あらゆるものにたいして、絶対的な一徹な不断の誠実を事とするのを、一つの掟《おきて》としていた。そして何をするにも極端に奔《はし》らざるを得なかったので、法外なことを言っては、世人を憤慨さした。彼はこの上もなく率直であった。あたかも
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