て、彼女はまったく荒唐|無稽《むけい》なつきない話を作りだしていた。馬鹿な作り話だとは自分でも知っていたが、しかしそう認めたくなかった。幾日もの間、仕事の上にかがみ込みながら、みずから自分をだまかしては喜んでいた。そのためにしゃべることを忘れてしまった。彼女の言葉の波は彼女のうちに潜んでしまって、あたかも河が突然地面の下に流れ込んだようなものだった。しかしその補いはついていた。無言の話の、会話の、なんという耽溺《たんでき》だったろう! 時としては、書物を読む時その文字の意味を理解するために、一音一音口の中で言ってみなければ承知しない人のように、彼女の唇《くちびる》の動くのが見えることもあった。
そういう夢から覚《さ》めると、彼女はうれしくもありまた悲しくもあった。実際の事情は、今自分が心の中で語ったとおりではないことを、彼女はよく知っていた。しかし幸福の反映がまだ彼女のうちに残っていた。そして彼女はまたいっそう頼もしい心地《ここち》で生活しだした。クリストフを得られないと絶望してはいなかった。
彼女はそれとはっきりした心でではなかったが、クリストフを得ようと企てた。この無器用な小娘は、強い愛情が与えてくれる確実な本能をもって、一挙に、友の心をとらえ得る道を見出すことができた。彼女は直接彼に向うことをしなかった。怪我がなおって、ふたたび家の中を駆け回れるようになると、彼女はルイザに近づいた。ごくわずかな口実ででもよかった。ちょっとした用をやたらに見つけてはルイザを助けてやった。出かける時には、かならず何か使いを頼ませた。代りに市場へ行ってやり、用達人らと談判してやり、中庭のポンプで水をくんできてやり、家庭内の仕事の一部まで引受けて、敷石を洗い床板をみがいてやった。ルイザが断ってもきかなかった。ルイザは自分一人で仕事をさしてもらえないのを当惑したが、しかし非常に疲れきっていて、助けに来てくれるのに反対するだけの力がなかった。クリストフは終日不在だった。ルイザは一人ぽっちの寂しさを感じていた。そしてこの親切な騒々しい娘といっしょにいるのは、彼女のためによかった。ローザは彼女の許《もと》に腰をすえてしまった。自分の仕事までもってきた。そして二人は話しだした。娘は下らない策をめぐらして、話をクリストフの上に向けようとつとめた。彼の噂《うわさ》をきくと、ただ彼の名前をきくだけでも、彼女はうれしくなった。両手は震え、眼をあげるのを避けた。ルイザはかわいいクリストフのことを話すのがうれしくて、彼が子供のおりのつまらない大しておかしくもない話を、いろいろ語ってきかした。しかしローザからつまらない話だと思われる心配はなかった。子供らしい馬鹿げたことやかわいらしいことをしてるクリストフの子供の姿を眼の前に描きだすことは、ローザにとっては得も言えぬ喜びであり感激であった。あらゆる女の心のうちにある母性的の愛情は、も一つの他の愛情と、彼女のうちで楽しく交り合った。彼女は心からうれしげに笑い、また眼をうるましていた。ルイザは彼女が示してくれる興味に心ひかれた。娘の心の中に起こってる事柄をそれとなく推察したが、それを様子には少しも現わさなかった。けれどそれを楽しみに思っていた。なぜなら、家じゅうで彼女ただ一人が、この娘の心の価値を知っていたから。時とすると、彼女は話をやめて、娘の顔をながめた。ローザはその無言にびっくりして、仕事から眼をあげた。ルイザは微笑《ほほえ》みかけていた。ローザは突然情熱に駆られて彼女の腕の中に身を投げ、彼女の胸に顔を隠した。それからまた二人は、前のように仕事を始め話を始めた。
夕方、クリストフが帰ってくると、ルイザはローザの世話をありがたく思っており、また自分が立てているちょっとしたある計画に従って、いつもその隣の娘をほめたててやめなかった。クリストフはローザの親切に心を動かされた。彼女が母によく尽してくれたことを見てとった。母の顔はいつもより晴やかになっていた。彼は心をこめてローザに礼を言った。ローザは言葉を言いよどんで、胸騒ぎを隠すために逃げ出した。そういう彼女の方がしゃべりたてる彼女よりも、はるかに悧口《りこう》ではるかに同情が寄せられるように、クリストフには思われた。彼は以前よりも偏見の少ない眼で彼女をながめた。そして思いもかけない美点を彼女のうちに見出した驚きを、少しも隠さなかった。ローザはそれに気づいた。彼女は彼の同情が増してきたのを認め、その同情は愛の方へ進んでいることと考えた。彼女はますます夢想にふけっていった。一身を挙《あ》げて願うことはついにはかならずかなうものだと、青春期の美しい推測で信じかけていた。――そのうえ、彼女の願いにはなんの不当な点があったろうか? 彼女の親切や身をささげたいとのやさしい要求にたいして、クリストフは他人よりもいっそう敏感なるべきはずではなかったろうか?
しかしクリストフは彼女のことを想《おも》ってはいなかった。彼は彼女を尊重してはいたが、しかし彼女は彼の頭の中になんらの地位をも占めていなかった。彼はそのころ、他の多くのことで頭を満たしていた。クリストフはもはや単なるクリストフではなかった。彼はもはや自分自身がわからなかった。恐るべき働きが彼のうちになされつつあって、彼の存在の根柢までもくつがえしかけていた。
クリストフは極度の倦怠《けんたい》と不安とを感じていた。訳もないのに気がくじけ、頭が重く、耳や目やすべての感覚が、酔ったようになってがんがん響いた。何物にも精神を集注することができなかった。精神はそれからそれへと飛び回って、疲憊《ひはい》しつくさんとする焦燥のうちに漂っていた。たえず形象が眼にちらついて、眩暈《めまい》がしていた。彼は初めそれを、過度の疲労と春の日の憔悴《しょうすい》とのせいにした。しかし春が過ぎても、不快は募るばかりだった。
それは、優雅な手でばかり事物に触れることをする詩人らが、青春期の不安、若い天使の悶《もだ》え、年少の肉と心との中における愛欲の眼覚《めざ》め、と名づける所のものであった。しかしそれはあたかも、各局部で亀裂《きれつ》し死滅しまた蘇《よみがえ》る全存在のこの恐るべき危機を、あたかも、信仰も思想も行為も全生命もすべてが、苦悶《くもん》と喜悦との痙攣《けいれん》の中で将《まさ》に絶滅せられ鍛え直されんとしてるかと思われるこの大革命を、児戯に等しいものだと見なし得るかのような名づけ方である。
彼の身体も魂も発酵しきっていた。彼は好奇心と嫌悪《けんお》の情との交り合った気持でそれをながめるだけで、それとたたかうだけの力はなかった。彼は自分のうちに何が起こってるか少しも了解しなかった。彼の全存在はばらばらになっていた。圧倒してくる懶《ものう》さのうちに日々を過した。働くことは一つの苦痛となった。夜は、重苦しい切れ切れの眠りをし、恐ろしい夢をみ、欲望に駆られた。獣的な魂が彼のうちにあばれていた。熱く燃えたち、汗に浸って、彼はおのれを嫌忌の情でながめた。狂気じみた淫《みだ》らな考えを振り落そうとつとめた。狂人になったのではないかしらとみずから尋ねてみた。
昼間もそういう獣的な考えからのがれることができなかった。魂のどん底に沈み込むような気がした。すがりつくべき何物もなかった。渾沌《こんとん》を防ぎとどむべきなんらの防壁もなかった。あらゆる武器は、彼の四方をおごそかにとり巻いていた城壁は、神も芸術も傲慢《ごうまん》も道徳も、皆次々に崩壊してゆき、彼から剥離《はくり》していった。裸体で、縛《いまし》められ、寝かされ、身動きもできないでいる自分を、蛆虫《うじむし》のたかってる死骸《しがい》のような自分を、彼は見出した。彼はむらむらと反発心を覚えた。自分の意志はどうなったのか? 彼はいたずらにそれを呼びかけるだけだった。夢みてると知りながら眼覚めようと欲する、睡眠中の努力にも似ていた。ただ鉛の塊《かたまり》のように夢から夢へと転がりゆくの外はなかった。ついには、争わない方がまだしも楽であることを知った。無感覚な宿命観をもって、彼は争うのをあきらめた。
規則的な生命の波が中断されたかのようだった。あるいは、その波は地下の裂け目に流れ込み、あるいは猛然とほとばしり出て来た。日々の連鎖が断たれてしまった。時間の平坦《へいたん》な野の中央に、ぽかりと多くの穴が口を開いて、その中に自分の全存在が埋没していった。クリストフはその光景を、自分に無関係なことのようにながめた。すべての物が、またすべての人が――そして彼自身も――彼には見知らぬもののようになっていた。彼はやはり仕事に出かけ務めを果したが、それも自働人形的だった。生命の機関がたえず今にも止るかと思われた。車輪の動きが狂っていた。母や家主一家の者といっしょに食卓についてる時にも、楽員らと聴衆との間で管弦楽団の席についてる時にも、突然彼の脳の中に空虚がうがたれた。彼は惘然《ぼうぜん》として、あたりの渋め顔をながめた。そして訳がわからなかった。彼はみずから尋ねた。
「どんな関係があるのか、この人たちと……?」
彼はあえて言い得なかった、「私との間に?」とは。
彼はもはや自分が存在してるかどうかも知らなかったのである。口をきくと、自分の声は別の身体から出てるように思われた。身体を動かすと、その自分の身振りを見るのは、遠くから、高くから――塔の頂からであった。彼は昏迷《こんめい》した様子で額に手を当てた。とんでもないことをしでかしそうだった。
最も人目の多い時に、いっそう自制しなければならない時に、ことにそんなことが起こった。たとえば、官邸へ行ってる晩だの、公衆の前で演奏してる時だのに。何か渋面をしたり、途方もないことを言ったり、大公爵の鼻を引っ張ったり、あるいは貴婦人の尻《しり》を蹴《け》ったり、そんなことを突然したくてたまらなくなった。ある晩なんかは、管弦楽を指揮しながら、公衆の前で裸体になりたい妄念《もうねん》とたたかいつづけたこともあった。その考えをしりぞけようとつとめる片側から、その考えにまた襲われた。それに負けないためには全力を尽さなければならなかった。その馬鹿げた争いを済ますと、汗にまみれ、頭が空《から》っぽになっていた。まったく狂気になっていた。ある一事をしてはいけないと考えただけで、もうその一事が、固定観念のような激しい執拗《しつよう》さでのしかかってきた。
かくて、狂わんばかりの力と空虚の中への墜落との連続のうちに、彼の生活は過ぎていった。砂漠《さばく》中の狂風だった。その風はどこから来たのか。その狂妄はなんであったか。彼の四|肢《し》と頭脳とをねじ曲げるそれらの欲望は、いかなる深淵《しんえん》から出て来たのか。狂暴な手で引き絞られた弓にも彼は似ていたが、しかもその手はこわれるまで弓を引き絞り――人に知られぬいかなる標的へ向ってか?――次にはそれを一片の枯木のように投げ捨てようとしていた。何者の餌食《えじき》と彼はなっていたのか。それらのことを彼は考究する勇気がなかった。彼は打ち負かされ恥ずかしめられたのを感じたが、自分の敗亡を正視するのを避けた。彼は疲れておりまた卑怯《ひきょう》であった。昔彼が軽蔑《けいべつ》していた人々、自分に快くない真実を見ることを欲しない人々、彼らを彼は今になって理解した。空費してる時間、投げ出してる仕事、駄目《だめ》になってる未来、そういうことをこの虚無の間にふと思い起こすと、恐ろしくて慄然《りつぜん》とした。しかし少しも反抗しなかった。彼の卑怯《ひきょう》な態度は、虚無の自棄的な肯定のうちに弁解を見出していた。水の流れに浮ぶ漂流物のように虚無のうちに身を任せることに、彼は苦《にが》い快楽を味わっていた。たたかってもなんの役にたとう? 美も善も神も生命も、いかなる種類の存在も、何もなかった。歩いていると往来の中で、にわかに地面がなくなった。土地も空気も光も彼自身も、もはやなかった。何物もなかった。頭に引きずられて前のめりになった。転倒する
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