いて隙《ひま》がないのだと説明した。彼女はつつましく詫《わ》びを述べた。彼女は自分の無邪気なやり口の不成功をみずからごまかすことができなかった。それは目的とはまったく背馳《はいち》していて、かえってクリストフを遠ざけていた。クリストフはもはやその不機嫌《ふきげん》さを隠そうとしなかった。彼女が口をきいてる時に耳を貸そうともせず、我慢しきれない様子を隠しもしなかった。彼女は自分の饒舌《じょうぜつ》が彼を苛立《いらだ》たせてるのを感じた。そしてつとめて晩は少しの間黙ってることができた。しかし彼女の力には及ばなかった。またもやにわかにさえずりだした。クリストフはその話の中途で、彼女を置きざりにして出て行った。彼女はそれを彼に恨まなかった。自分自身を恨めしく思った。自分は馬鹿で面白くない滑稽《こっけい》な者だと判断した。あらゆる欠点が非常に大きく思われて、それを押し伏せたかった。しかし最初の試みに失敗してから勇気がくじけ、どうしても成功すまいと考え、それだけの力がないと考えた。それでもふたたびつとめてみた。
 しかし彼女は、自分でどうにもできない欠点をもっていた。容貌《ようぼう》の醜さにたいして施す術《すべ》があろうか? 彼女はもはやそれを疑い得なかった。ある日鏡で自分の顔を見てると、自分の不運の確実さが突然分ってきた。それは雷に打たれたようなものだった。もとより彼女は悪い点をもなお誇張して考え、自分の鼻を実際よりは十倍も大きく見た。鼻が顔全体を占めてるかと思った。もう人前に顔出しもしかねた。死にたいほどだった。しかし青春は非常な希望の力をもってるもので、そういう落胆の発作は長くつづきはしない。彼女はそのあとで、思い違いをしたのだと想像した。その想像をほんとうだと信じようとつとめ、そして時には、自分の鼻はまったく人並でかなり格好もよいと、思うまでになった。すると彼女は本能から、ある子供らしい策略を、あまり額を現わさず顔の不均衡をさまで見せつけないような髪の結い方を、しかもきわめて無器用に思いついた。それには少しも嬌態《きょうたい》を装う考えは交っていなかった。浮気心は少しも頭に浮かんでいなかったし、もし浮かんだにしろそれは知らず知らずにであった。彼女の求めるところはわずかなものだった。少しの友情きりだった。そしてその少しのものをも、クリストフは彼女に与えたく思っていないらしかった。二人が顔を合せる時、今日はとか今晩はとかいう親しい言葉を、彼が親切にかけてやりさえしたら、ローザはどんなにか幸福に思ったろう。しかしクリストフの眼つきは、平素からいかにもきびしく冷やかだった。彼女はそれにぞっとした。彼は彼女に何にも不愉快なことさえ言わなかった。彼女はそういう残忍な沈黙よりも、叱責《しっせき》の方をまだ好んだであろう。
 夕方、クリストフはピアノについて演奏した。なるべく物音に煩わされないように、家の一番上の狭い屋根裏の室にこもっていた。ローザは下から、それを聴《き》いて感動した。彼女は少しも教養のない粗悪な趣味をもってはいたが、音楽を好んでいた。彼女は母がそばにいる間は、室の片隅にとどまって、仕事の上にかがみ込み、それに夢中になってるらしかった。しかし彼女の魂は、上から響いてくる音律に引きつけられていた。幸いにも、アマリアが近所に用があって出かけると、ローザはすぐに飛び上り、仕事を投げすて、心を踊らせながら、屋根室の入口まで上っていった。息を凝らして、扉《とびら》に耳をあてがった。そのままじっとしていたが、ついにアマリアがもどってきた。彼女は音をたてまいと用心しながら、爪先《つまさき》立って降りていった。しかしきわめて無器用だったし、いつも急いでいたので、階段から転げ落ちそうになることがたびたびだった。それからある時は、身体を前方につき出し、頬《ほお》を錠前にくっつけて、耳を傾けていると、平均を取り失って、額を扉にぶっつけた。彼女は非常にあわてて息を切らした。ピアノの音はぴたりと止った。彼女は逃げ出すだけの力もなかった。ようやく立上ると、扉が開《あ》いた。クリストフは彼女の姿を見、怒気を含んだ一|瞥《べつ》を投げて、それから、なんとも言わずに荒々しくそばを離れ、怒って降りてゆき、外に飛び出した。食事の時になってもどって来たが、許しを願ってる彼女の悲しい眼つきにはなんらの注意も払わず、あたかも彼女がそこにいないかのようなふうをした。そして数週間、彼はまったく演奏をやめた。ローザは人知れずしきりに涙を流した。だれもそれに気づかなかった。だれも彼女に注意を向けていなかった。彼女は熱心に神に祈った。……なんのために? それは彼女にもよくわからなかった。ただ自分の悲しみをうち明けたかった。彼女はクリストフにきらわれてると信じていた。それでもやはり、彼女は希望をつないでいた。クリストフが多少の同情を示す様子を見せてやり、彼女の言葉に耳を傾けるふうをしてやり、いつもより少し親しく握手してやったら、それで十分だったのであるが……。
 しかるに、家の者らの不謹慎な数語を聞くと、彼女はあられもない方面へ想像を走らしてしまった。

 家じゅうの者は皆クリストフに同情を寄せていた。真面目《まじめ》で孤独で、自分の義務にたいしてりっぱな考えをいだいている、十六歳のえらい少年は、皆に一種の尊敬の念を起こさした。彼の発作的な不機嫌《ふきげん》や、執拗《しつよう》な沈黙や、陰気な様子や、乱暴な振舞などは、このような家にあっては少しも人を驚かすものではなかった。また彼が、夕方幾時間もぼんやりして、屋根室の窓ぎわにもたれ、中庭をのぞき込み、夜になるまでじっとしていても、芸術家というものは皆のらくら者だと考えてるフォーゲル夫人でさえ、思う存分に攻勢的なやり方では、それを彼にとがめ得なかった。なぜなら、彼がその他の時間は稽古《けいこ》を授けるのに身を疲らしてることを、彼女はよく知っていたから。そしてだれも口には言わないがだれも皆知っている、あるひそかな考えから、彼女は彼を――皆もそうだったが――いたわっていた。
 ローザは、クリストフと話してる時に、親たちが眼を見合したり意味ありげな囁《ささや》きをかわしたりするのに気がついた。初め彼女はそれに気を留めなかった。それから気にかかって心ひかれた。彼らの言ってることが知りたくてたまらなかった。しかしあえて尋ねることもしかねた。
 ある夕方彼女は、洗濯《せんたく》物をかわかすため木の間に張ってある綱を解くために、庭の腰掛に上っていたが、クリストフの肩につかまって地面に飛び降りようとした。ちょうどその時、彼女の眼は祖父と父との眼に出会った。彼らは家の壁に背中をつけて、パイプを吹かしながら腰掛けていた。彼らはたがいに眼配せをし合った。そしてユスツス・オイレルはフォーゲルに言った。
「似合いの夫婦になるだろう。」
 ところが、娘が聞いてるのを認めたフォーゲルに肱《ひじ》でつっ突かれたので、彼はかなり遠くまで聞えるように大声で「へむ! へむ!」と言って、ごく巧みに――(と少なくとも彼は考えたが)――前の言葉をごまかしてしまった。クリストフは背を向けていたから、何にも気づかなかった。しかしローザは心が転倒して、飛び降りかかってるのを忘れ、足をくじいた。もしクリストフが、相変らずの無器用さを小声でののしりながらも、つかまえてやらなかったら、彼女はころんでたかも知れなかった。彼女はひどく足を痛めたが、少しもそんな様子は見せず、ほとんどそれを気にもせず、今聞いたことばかりを考えていた。彼女は自分の室へ逃げていった。一歩を運ぶのも苦しかったが、人に気づかれまいとして気を張りつめた。彼女はうれしい胸騒ぎに満たされていた。寝床のそばの椅子《いす》に身を落として、蒲団《ふとん》の中に顔を隠した。顔は燃えるようだった。眼には涙を浮かべながら笑っていた。恥ずかしかった。穴にでもはいりたかった。考えをまとめることができなかった。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》がぴんぴんして、踝《くるぶし》が激しく痛み、失神し発熱してるような状態だった。ぼんやり外の物音を聞き、往来で遊んでる子供の叫び声を聞いていた。そして祖父の言葉がまだ耳に響いていた。彼女は低く笑い、真赤《まっか》になり、顔を羽蒲団に埋め、祈り、感謝し、欲求し、気づかい――恋していた。
 彼女は母に呼ばれた。立上ろうとした。一歩踏み出すと、堪えがたい苦痛を感じて、卒倒しそうだった。眩暈《めまい》がしていた。死ぬのではないかと思った。死んでしまいたかった。と同時に、全身の力をあげて生きたく、前途に見えてる幸福のために生きたかった。ついに母がやって来た。やがて家じゅうの者が心痛しだした。彼女は例のとおりしかられ、包帯をされ、寝かされ、肉体の苦痛と内心の喜びとに浮かされて惘然《ぼうぜん》となった。楽しき夜……そのなつかしい一夜の些細《ささい》な思い出まで皆、彼女には聖《きよ》められたものとなった。彼女はクリストフのことを考えてはいなかった。何を考えてるかみずから知らなかった。幸福であった。
 クリストフはその出来事に多少責任があると思ったので、翌日、容態を尋ねに来た。そして初めてやさしい様子を彼女に示した。彼女はしみじみとそれを感謝し、怪我《けが》をありがたがった。生涯そんな喜びが得らるるなら、生涯苦しんでもいいと希った。――彼女は身動きもしないで数日間寝ていなければならなかった。その間祖父の言葉をくり返し、それを考え回して過した。なぜなら疑問が出て来たから。
「……になるだろう、」と祖父は言ったのかしら?
「……になれるだろうが、」と言ったのかしら?
 あるいはまたそんなことは何にも言わなかったのかもしれない。――いや、祖父は確かに言った。
 彼女はそれに確信があった。……では彼らは、彼女が醜いことを、クリストフが彼女に我慢しかねてることを、知らなかったのか?……しかし希望をかけるのはうれしいことだった。おそらく自分が思い違いしたんだろう、自分で思ってるほど醜くはないんだろうと、彼女は信ずるにいたった。彼女は椅子《いす》の上に身を起こして、正面にかかってる鏡を見てみた。もうどう考えていいかわからなかった。要するに、祖父と父とは彼女よりもすぐれた批判者だった。自分のことは自分で批判できないものだ。……ああ、もしそうだったら……もしかして……自分でも気がつかずに……もしきれいだったとしたら!……またおそらく、クリストフの素気ない感情を誇張して考えてるのかもしれなかった。だがもちろん、その冷淡な少年は、事変の翌日、同情の様子を彼女に示したあとは、もはや彼女のことを気にかけなかった。容態を見に行くことも忘れた。しかしローザは彼を許してやった。彼は種々なことに忙しいのだ。どうしてこちらのことを考えられよう。芸術家を他の人々と同じように批判してはいけないのだ。
 けれども、彼女はいかにあきらめても、彼がそばを通りかかると、心を踊らしながら同情の言葉を待たずにはいられなかった。ただ一言、ただ一|瞥《べつ》……その他のことは想像でこしらえ出せるのだった。恋の初めは、ごくわずかな養分をしか必要としない。たがいに顔を合せ、たがいにすれちがうだけで、十分である。そういうころには、ほとんど一人で恋愛を創《つく》り出すに足りるほどの空想力が、魂から流れだす。些細《ささい》なことで魂は恍惚《こうこつ》の境にはいってゆく。後にそういう恍惚さを魂がほとんど見出さなくなるのは、次第に満足してゆき、ついに欲求の対象を所有してゆくに従って、ますます要求深くなる時のことである。――だれもまったく気づかなかったが、ローザはいろんなものでみずからこしらえ上げた物語《ローマンス》の中にばかり生きていた。クリストフは人知れず彼女を愛している、けれどあえてそれをうち明け得ないでいる、それは気恥ずかしいからであり、あるいはまた、この感傷的な馬鹿娘の想像に気に入るような、ある小説的な架空的な馬鹿げた理由からである。そういうことについ
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