女は希望をつないでいた。クリストフが多少の同情を示す様子を見せてやり、彼女の言葉に耳を傾けるふうをしてやり、いつもより少し親しく握手してやったら、それで十分だったのであるが……。
しかるに、家の者らの不謹慎な数語を聞くと、彼女はあられもない方面へ想像を走らしてしまった。
家じゅうの者は皆クリストフに同情を寄せていた。真面目《まじめ》で孤独で、自分の義務にたいしてりっぱな考えをいだいている、十六歳のえらい少年は、皆に一種の尊敬の念を起こさした。彼の発作的な不機嫌《ふきげん》や、執拗《しつよう》な沈黙や、陰気な様子や、乱暴な振舞などは、このような家にあっては少しも人を驚かすものではなかった。また彼が、夕方幾時間もぼんやりして、屋根室の窓ぎわにもたれ、中庭をのぞき込み、夜になるまでじっとしていても、芸術家というものは皆のらくら者だと考えてるフォーゲル夫人でさえ、思う存分に攻勢的なやり方では、それを彼にとがめ得なかった。なぜなら、彼がその他の時間は稽古《けいこ》を授けるのに身を疲らしてることを、彼女はよく知っていたから。そしてだれも口には言わないがだれも皆知っている、あるひそかな考えから、彼女は彼を――皆もそうだったが――いたわっていた。
ローザは、クリストフと話してる時に、親たちが眼を見合したり意味ありげな囁《ささや》きをかわしたりするのに気がついた。初め彼女はそれに気を留めなかった。それから気にかかって心ひかれた。彼らの言ってることが知りたくてたまらなかった。しかしあえて尋ねることもしかねた。
ある夕方彼女は、洗濯《せんたく》物をかわかすため木の間に張ってある綱を解くために、庭の腰掛に上っていたが、クリストフの肩につかまって地面に飛び降りようとした。ちょうどその時、彼女の眼は祖父と父との眼に出会った。彼らは家の壁に背中をつけて、パイプを吹かしながら腰掛けていた。彼らはたがいに眼配せをし合った。そしてユスツス・オイレルはフォーゲルに言った。
「似合いの夫婦になるだろう。」
ところが、娘が聞いてるのを認めたフォーゲルに肱《ひじ》でつっ突かれたので、彼はかなり遠くまで聞えるように大声で「へむ! へむ!」と言って、ごく巧みに――(と少なくとも彼は考えたが)――前の言葉をごまかしてしまった。クリストフは背を向けていたから、何にも気づかなかった。しかしローザは心が転倒して、飛び降りかかってるのを忘れ、足をくじいた。もしクリストフが、相変らずの無器用さを小声でののしりながらも、つかまえてやらなかったら、彼女はころんでたかも知れなかった。彼女はひどく足を痛めたが、少しもそんな様子は見せず、ほとんどそれを気にもせず、今聞いたことばかりを考えていた。彼女は自分の室へ逃げていった。一歩を運ぶのも苦しかったが、人に気づかれまいとして気を張りつめた。彼女はうれしい胸騒ぎに満たされていた。寝床のそばの椅子《いす》に身を落として、蒲団《ふとん》の中に顔を隠した。顔は燃えるようだった。眼には涙を浮かべながら笑っていた。恥ずかしかった。穴にでもはいりたかった。考えをまとめることができなかった。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》がぴんぴんして、踝《くるぶし》が激しく痛み、失神し発熱してるような状態だった。ぼんやり外の物音を聞き、往来で遊んでる子供の叫び声を聞いていた。そして祖父の言葉がまだ耳に響いていた。彼女は低く笑い、真赤《まっか》になり、顔を羽蒲団に埋め、祈り、感謝し、欲求し、気づかい――恋していた。
彼女は母に呼ばれた。立上ろうとした。一歩踏み出すと、堪えがたい苦痛を感じて、卒倒しそうだった。眩暈《めまい》がしていた。死ぬのではないかと思った。死んでしまいたかった。と同時に、全身の力をあげて生きたく、前途に見えてる幸福のために生きたかった。ついに母がやって来た。やがて家じゅうの者が心痛しだした。彼女は例のとおりしかられ、包帯をされ、寝かされ、肉体の苦痛と内心の喜びとに浮かされて惘然《ぼうぜん》となった。楽しき夜……そのなつかしい一夜の些細《ささい》な思い出まで皆、彼女には聖《きよ》められたものとなった。彼女はクリストフのことを考えてはいなかった。何を考えてるかみずから知らなかった。幸福であった。
クリストフはその出来事に多少責任があると思ったので、翌日、容態を尋ねに来た。そして初めてやさしい様子を彼女に示した。彼女はしみじみとそれを感謝し、怪我《けが》をありがたがった。生涯そんな喜びが得らるるなら、生涯苦しんでもいいと希った。――彼女は身動きもしないで数日間寝ていなければならなかった。その間祖父の言葉をくり返し、それを考え回して過した。なぜなら疑問が出て来たから。
「……になるだろう、」と祖父は言ったのかしら?
「……になれ
前へ
次へ
全74ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング