、彼らの言うことを信じきっていた。腹蔵のない信頼的な満足しやすい性質だったから、家の中の憂鬱《ゆううつ》な気分に調子を合わせようとつとめ、耳にする悲観的な言葉を従順にくり返していた。彼女は最も献身的な心をもっていて、常に他人のことを考えて、他人を喜ばせようとつとめ、他人の心配を分ち取り、その欲望を推察し、ただ愛したがっていて、報酬を求むる念はなかった。家の者たちは、皆善人ではあり彼女を愛してはいたが、自然に彼女のそういう性質につけ込んでいた。人は常に、自分に身をささげてる者の愛情を濫用しがちなものである。家の者たちは彼女の世話を信じきっていたから、それを彼女に少しもありがたいと思わなかった。彼女から何をしてもらっても、さらにそれ以上を期待した。彼女は無器用だった。疎忽《そこつ》であり、性急であり、唐突なお転婆《てんば》な動作をし、むやみに愛情に駆られ、いつも家の中の災難となった。コップをこわし、水差をひっくり返し、扉《とびら》を激しく閉《し》め、あらゆることで家じゅうの怒りを招いた。たえずひどい目にあって、片隅《かたすみ》へ行っては泣いた。しかしその涙はすぐにやんだ。彼女はまたにこにこした様子になり、おしゃべりを始め、だれにたいしても恨みの影さえいだいていなかった。
 クリストフの到来は、彼女の生活じゅうの大事件であった。彼の噂《うわさ》はしばしば聞いていた。クリストフは町の世間話の中に一地位を占めていた。そういうことは、地方の小さな評判の一形式であった。彼の名前は、オイレル家の話の中にもしばしば出てきた。ことにジャン・ミシェル老人がまだ生きてたうちはそうだった。老人は自分の孫を自慢にして、知人の家を回り歩いてはほめたてていた。ローザはまた一、二度、その若い音楽家を音楽会で見たことがあった。彼が自分の家に来て住むことを知ると、彼女は手をたたいた。その不謹慎な態度をきびしくしかられて、まったく当惑した。別に悪いことだとは思っていなかった。彼女のような平板な生活をしていると、新しい借家人が来ることは望外の気晴しだった。いよいよクリストフがやって来るという数日の間、彼女は待ち焦れて苛《い》ら苛《い》らしていた。家が彼の気に入らなくはないだろうかと心配して、できるだけ彼の部屋をきれいにしようと骨折った。移転の朝になると、歓迎のしるしとして、暖炉の上に小さな花束をもって来さえした。けれども自分の身については、見栄をよくしようとは少しも気を配らなかった。クリストフは最初にちらりと見ただけで、醜い無様《ぶざま》な娘だと判断してしまった。彼女の方では彼にそのような判断は下さなかった。だがむしろそのような判断を下すべき理由は十分あったに違いない。なぜならクリストフは、疲れはて、忙しく働き、服装《みなり》にも注意しないでいて、平素よりいっそう醜くなっていたから。しかしだれのことをも少しも悪く思えないローザは、自分の祖父や父や母を完全にきれいだと見なしていたローザは、予期どおりの姿でクリストフを見てしまって、心から彼に感嘆した。食卓で彼の隣にすわると、非常に気恥ずかしかった。そして不幸にも、その気恥ずかしさは饒舌《じょうぜつ》となって現われた。そのためにクリストフの同情は一挙にぶちこわされた。彼女はそれに気づかないで、その第一夜は、輝かしい思い出となって頭に残った。新しく来た借家人たちがその部屋《へや》へ上った後、彼女は自分の室にただ一人で、彼らの歩き回る足音を頭の上に聞いた。その足音は彼女のうちに愉快な響きを伝えた。家じゅうが蘇《よみがえ》ったように思われた。
 翌日、彼女は初めて、不安げに注意しながら自分の姿を鏡に映してみた。そして自分の不幸の大いさをまだはっきり知りはしなかったが、それでも不幸を予感し始めた。自分の顔だちを一々判断しようとつとめたが、どうもうまく分らなかった。悲しい懸念にとらえられた。深い溜息をついて、装いを少し変えてみた。それでもますます醜くなるばかりだった。そのうえ生憎《あいにく》な考えをいだいて、種々な世話でクリストフをうるさがらした。新しい知人たちにたえず会い、用をしてやろうという、単純な希望に駆られて、始終階段を上り降りし、そのたびごとに不用な品物をもって来、しつこく手伝いをしたがり、そして常に笑いしゃべり叫んでいた。ただ母親の苛立《いらだ》った声に呼び立てられる時だけ、彼女はその熱心と話とを中止した。クリストフは厭《いや》な顔つきをしていた。もしつとめて我慢しなかったら、幾度となく癇癪《かんしゃく》を起こすところだった。彼は二日間辛抱した。三日目には扉《とびら》に錠をおろした。ローザは扉をたたき、呼び声をたて、それと悟り、当惑して降りてゆき、そしてもう二度と始めなかった。彼は彼女に会った時、急ぎの仕事にとりかかって
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