そくなったのを心配して、帰ろうと言いだした。クリストフは答えなかった。レオンハルトはその腕をとらえた。クリストフは身を震わし、昏迷《こんめい》した眼でレオンハルトをながめた。
「クリストフさん、帰らなけりゃいけません。」とレオンハルトは言った。
「悪魔にでも行っちまえ!」とクリストフは激しく叫んだ。
「え、クリストフさん、僕が何かしましたか?」とレオンハルトはびっくりしてこわごわ尋ねた。
 クリストフは正気に返った。
「そうだ、君の言うのはもっともだよ。」と彼はずっと穏かな調子で言った。「僕は自分でわからずに言ったんだ。神に行くがいい、神に行くがいい!」
 彼は一人そこに残った。心は荒廃の極に達していた。
「嗚呼《ああ》、嗚呼!」と彼は両手を握りしめ、真暗《まっくら》な空の方を熱心にふり仰いで叫んだ。「もう信じないのは、どうしたことなのか。もう信ずることができないのは、どうしたことなのか。自分のうちに何か起こったのか?」
 彼の信仰の破滅と、さっきレオンハルトとかわした会話との間には、あまりに大なる懸隔があった。彼の精神的決意のうちに近ごろ起こっていた動揺の原因は、アマリアの煩わしさや家主一家の者のおかしな様子などではなかったのと同じく、彼の信仰破滅の原因は、レオンハルトとの会話でないことは明らかだった。そういうのは口実にすぎなかった。惑乱は外部から来たのではなかった。惑乱は彼のうちにあった。見知らぬ怪物が心のうちに動き回ってるのを、彼は感じていた。そして自分の思想を内省して、自分の悪を真正面に見るだけの勇気がなかった。……悪? それは一つの悪だろうか? 倦怠《けんたい》、陶酔、快い苦悶《くもん》が、彼のうちにしみ込んでいた。もはや自分が自分のものではなかった。昨日まで信じていた堅忍主義のうちに堅く閉じこもろうとしても、駄目《だめ》であった。すべてが一挙に動揺した。彼はにわかに感じた、燃ゆるような野蛮な際限ない広い世界を……神よりも広大である世界を!……
 そういうのは一瞬間のことにすぎなかった。しかし彼のこれまでの生活の均衡は、そのために以後はすっかり破られてしまった。

 全家族のうちで、クリストフがなんらの注意をも払わなかった者は、ただ一人きりだった。それは娘のローザだった。彼女は少しも美しくなかった。そしてクリストフは、自分ではなかなか美しいどころではなかったが、他人の容貌《ようぼう》については非常にやかましかった。彼は青年の落ちつき払った残忍さをもっていて、女がもし醜い時には――少なくとも、人に愛情を起こさせるべき年齢を過ぎていず、真面目《まじめ》な穏かなほとんど宗教的な感情をもつまでに達していない時には、そういう醜い女は、彼にとっては存在しないも同じだった。そのうえローザは、怜悧《れいり》でないでもなかったが、これといって特別の才能をそなえてはいなかった。そしてまた、クリストフを逃げ回らせるほどの饒舌《じょうぜつ》な習慣で毒されていた。それでクリストフは、彼女のうちになんにも知るに足るべきものはないと判断して、あえて知ろうともしなかった。たかだか彼女の方へちょっと眼を向けるくらいのことだった。
 けれども彼女は、多くの若い娘たちよりもましであった。クリストフがあれほど愛したミンナよりも確かにまさっていた。媚態《びたい》もなく虚栄心もない善良な少女で、クリストフがやって来たころまでは、自分が醜いということに気づきもせず、それを気にしてもいなかった。なぜなら、周囲の人たちも彼女の不器量を気にしていなかったから。祖父や母が、しかる時にそれを言いたてることがあっても、彼女はただ笑うばかりだった。彼女はそれを信じていなかったし、あるいはそれを大したことだとも思っていなかった。そして祖父や母の方も同じだった。彼女と同じくらいに醜い女やもっと醜い多くの女も、自分を愛してくれる男を見出していたではないか! ドイツ人は、肉体上の欠点にたいしては幸福な寛容さをもっている。彼らはそれを見ないでいられる。あらゆる顔だちと人間美の最も有名な模範的顔だちとの間に、意外な関係を発見するところの勝手な想像力によって、欠点を美化することさえもできる。オイレル老人をして、自分の孫娘はリュドヴィジのジュノーに似た鼻をもってると断言させるには、彼に多く説きたてるの要はなかったろう。ただ幸いにも、彼はきわめて小言家《こごとや》でお世辞を言わなかったまでである。そしてローザも、自分の鼻の格好には無頓着《むとんじゃく》で、素敵な家庭的義務を典例に従って履行することばかりを、自ら誇りとしていた。人から教え込まれるすべてのことを、福音書の言葉のように受けいれていた。家から出かけることはほとんどなかったので、比較の対象をあまりもたなかったし、家の者たちを率直に感嘆し
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