考えにすぎません。一面から見れば、少しの善と多くの悪とがあります。また他面から見れば、地上には善も悪もないんです。そしてこの世の後には、無限の幸福があります。なんで躊躇《ちゅうちょ》することがありましょう。」
 クリストフはそういう数理的な考えをあまり好まなかった。そんな打算的な生涯《しょうがい》はきわめて貧弱に思われた。けれども、そこにこそ知恵が存するのだと思い込もうとつとめた。
「そんなふうでは、」と彼は少し皮肉を交えて尋ねた、「一時の楽しみに誘惑される恐れはないだろうね。」
「あるもんですか! それは一時のことにすぎないが、そのあとには永遠があるということが、わかってますからね。」
「じゃあ君は、その永遠というものを確信してるのかい?」
「もちろんです。」
 クリストフはいろいろ尋ねた。彼は欲求と希望とに震えていた。もしレオンハルトが神を信ずべき不可抗の証拠を示してくれるとするならば! いかに熱心に彼は、神の道に従うために、あらゆる他の世界をみずから捨て去ることだろう。
 レオンハルトは使徒の役目をするのを得意に感じていたし、そのうえ、クリストフの疑惑は形式にたいするものにすぎなくて、理論にはすぐに屈するだけの鑑識をそなえたものであると信じていたから、まず最初に、経典や福音書の権威や奇跡や伝統などの力を借りて説いた。しかし、クリストフがしばらくその言葉に耳を傾けた後、それは問いをもって問いに答えることであって、自分が求めてるのは、ちょうど自分の疑惑の対象となってるところのものを示してもらいたいのではなく、疑惑を解く方法を示してもらいたいのであると言って、彼の言葉をさえぎると、彼は顔色を曇らし始めた。クリストフは思ったよりいっそう不健全であり、理性によってしか説服されまいと自負してることを、レオンハルトは認めざるを得なかった。けれども彼はなお、クリストフが唯我独尊主義者の真似《まね》をしている――(彼は本心から唯我独尊主義者たり得る者があろうとは想像だもしなかった)――のだと考えた。で彼は落胆もせず、最近に得た学問を鼻にかけて、学校で習い覚えた知識に頼った。そして命令よりもいっそうおごそかな調子で、神と不滅なる魂との存在の形而《けいじ》上学的証拠を、ごたごたと並べたてた。クリストフは気を張りつめ、額に皺《しわ》を寄せて一生懸命になり、黙って考えつめていた。彼はレオンハルトに言葉をくり返させては、その意味を理解し、それを心にかみしめ、その理路をたどろうと、はなはだしく骨折った。次に彼はにわかに癇癪《かんしゃく》を起こして、人を馬鹿《ばか》にしてると言いきり、そんなことは頭の遊戯であって、言葉をこしらえだし次にその言葉を実物だと考えて面白がってる話し上手《じょうず》な奴《やつ》どもの冗談だと、言い放った。レオンハルトは気を悪くして、そういうことを述べる人たちのりっぱな信仰を保証した。クリストフは肩をそびやかして、もし奴らが道化者でないとすれば三文文学者だと、ののしりながら言った。そして他の証拠を要求した。
 レオンハルトはクリストフが回復の道ないほど不健全であることを認めて、あきれ返ってしまうと、もう彼にたいする興味を失った。不信仰者と議論をして時間をつぶすな――少なくとも彼らが信じまいとつとめてる時には、と言われた言葉を思い出した。そんな議論は、相手の利益にもならないうえに、自分の心を乱す恐れがある。不幸な者どもは、これを神の意志のままに打捨てておく方がいい。もし神に思召しがあったら、彼らを啓発してくださるだろう。もし神に思召しがなかったら、だれがあえて神の意志にそむくことをなし得よう? それでレオンハルトは、議論を長くつづけようとは固執しなかった。そしてただ、当分のうちは仕方がない、いくら論じても、道を見まいと決心してる者にはそれを示すことはできない、祈らなければいけない、御恵みにすがらなければいけない、と静かに言うだけで満足した。神の恵みなしには何事もできはしない。御恵みを望まなければいけない。信ずるためには欲しなければいけない。
 欲する? とクリストフは苦々しく考えた。それならば神は存在するだろう、なぜなら神が存在することを自分が欲するのだから。それならばもう死は存しないだろう、なぜなら死を否定するのが自分にうれしいから。……嗚呼《ああ》!……真理を見る心要のない人々、自分の欲するとおりの形に真理を見ることができ、自分の気に入る幻をこしらえることができ、その中に甘く眠ることができる人々、彼らにとっては人生はいかに気楽であることだろう! しかしクリストフは、決してそういう寝床には眠れないに違いなかった……。
 レオンハルトはなおつづけて話した。好きな話題に話をもどして、観照的生活の魅力を説いた。そしてこの危険のない境地
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