ることのように考えられた。それに元来彼は、そういうむずかしい事柄をあまり念頭においていなかった。根本においては、彼はひどく宗教的だったから、神のことを多く考えなかった。彼は神のうちに生きていた。神を信ずる必要がなかった。神を信ずるのは、弱い者や衰えた者など、貧血的な生活者にとってはよいことである。植物が太陽にあこがれるように、彼らは神にあこがれる。瀕死《ひんし》の者は生命にとりすがる。しかし、自分のうちに太陽と生命とを有する者は、なんで自分以外のところにそれらを求めに行く要があろう?
クリストフはもしただ一人で生きていたら、おそらくそれらの問題に頭を向けることがなかったであろう。しかし社会的生活の義理として、彼はそれらの幼稚な閑問題に考慮を向けざるを得なかった。社会においては、それらの問題は不均衡なほど大きな地位を占めていて、人は歩々にそれにぶっつかり、いずれか心を定めなければならないのである。力と愛とにあふれてる健全な豊饒《ほうじょう》な魂にとっても、神が存在するか否かを懸念《けねん》することより、もっと緊急な沢山《たくさん》の仕事があたかもないかのようである。……神を信ずることだけが唯一の問題であるならばまだ分る。とはいえ、ある大きさのある形のある色のそしてある種類の、何か一つの[#「何か一つの」に傍点]神を信じなければいけない。このことについても、クリストフは考えてはいなかった。彼の思想の中では、キリストもほとんどなんらの地位をも占めていなかった。それは、彼がキリストを少しも愛していないからではなかった。キリストのことを考えたらそれを愛したに違いなかった。しかし彼はキリストのことを考えたことがなかった。時にはそれをみずからとがめ、心苦しく思った。どうしてキリストにもっと興味を見出せないのか、自分でも分らなかった。それでも彼は教義を実行していた。家の者は皆教義を実行していた。祖父はよく聖書《バイブル》を読んでいた。クリストフ自身も几帳面《きちょうめん》にミサに出かけていた。彼はオルガン手だったからいくらかミサに手伝ってもいた。そして模範的な良心をもってその役目に勉励していた。しかし彼は教会堂から出ると、その間何を考えていたかはっきり言い得なかったであろう。彼は自分の思想を定めるために経典を読み始めた。そしてその中に面白みを見出し、愉快をさえも見出した。しかしそれは、だれも神聖な書物とは言いそうもないような、本質的には他の書物と少しも異るところのないある面白い珍しい書物の中から、くみとって来るのに似ていた。ほんとうを言えば、彼はキリストにたいして同感をもっていたとするも、ベートーヴェンにたいしてはさらに多く同感をもっていた。サン・フロリアン会堂の大オルガンについて、日曜の祭式の伴奏をやっている時、彼はミサによりもむしろ大オルガンの方に多く気をとられていたし、聖歌隊がメンデルスゾーンを奏してる時よりもバッハを奏してる時の方が、はるかに宗教的気分になっていた。ある種の式典は彼に激しい信仰心を起こさした。しかしその時、彼が愛していたのは神であったろうか、あるいは、不注意な一牧師がある日彼に言ったように、ただ音楽ばかりであったろうか? この牧師の冗談は彼を困惑せしめたが、牧師自身はそれを夢にも知らなかったのである。他の者だったら、そんな冗談には気も止めず、そのために生活態度を変えようとはしなかったろう――(自分が何を考えてるか知らないで平然としてるような者が、世にはいかに多いことだろう!)――しかしクリストフは、厄介にも真摯《しんし》を欲していたく悩んでいた。そのため彼はあらゆることにたいして慎重になっていた。一度慎重になれば、常にそうならざるを得なかった。彼は苦しんだ。自分が二心をもって動いてるように思われた。いったい信じているのか、もしくは信じていないのか?……この問題を一人で解決するには、彼は実際的にもまた精神的にも――(知識と隙《ひま》とを要するので)――その方法をもたなかった。それでも問題は解決せなければならなかった。さもなくば彼は局外者となるかもしくは偽善者となるかの外はなかった。しかも彼は両者のいずれにもなることはできなかった。
彼は周囲の人々をおずおず観察してみた。だれも皆各自に確信あるらしい様子をしていた。クリストフは彼らのその理由を知りたくてたまらなかった。しかし駄目《だめ》だった。だれも彼に明確な答えを与えてくれなかった。いつも顧みて他のことをばかり論じた。ある者は彼を傲慢《ごうまん》だとし、そういうことは論ずべきものではなく、彼よりも賢いすぐれた多くの人々が議論なしに信仰しているし、彼はただそういう人々と同じようにすればよいと言った。または、そういう問いをかけられることは、あたかも自分自身が侮辱されること
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