にどんよりした陰気な一日でも、それを愛するのだ。気をもんではいけない。ごらんよ、今は冬だ。何もかも眠っている。がよい土地は、また眼を覚ますだろう。よい土地でありさえすればいい、よい土地のように辛抱強くありさえすればいい。信心深くしてるんだよ。待つんだよ。お前が善良なら、万事がうまくいくだろう。もしお前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、それでも、やはりそのままで満足していなければいけない。もちろんそれ以上できないからだ。それに、なぜそれ以上を望むんだい? なぜできもしないことをあくせくするんだい? できることをしなければいけない……我が為し得る程度を[#「我が為し得る程度を」に傍点]。」
「それじゃあまりつまらない。」とクリストフは顔をしかめながら言った。
ゴットフリートは親しげに笑った。
「それでもだれよりも以上のことをなすわけだ。お前は傲慢《ごうまん》だ。英雄になりたがってる。それだから馬鹿なまねしかやれないんだ……。英雄!……私はそれがどんなものだかよく知らない。しかしだね、私が想像すると、英雄というのは、自分にできることをする人だ。ところが他の者はそういうふうにはやらない。」
「ああ!」とクリストフは溜息をついた、「そんなら生きてても何になるでしょう? 生きてても無駄です。『欲するは能うことなり!』……と言ってる人たちもあります。」
ゴットフリートはまた静かに笑った。
「そうかい?……だがそれは大きな嘘つきだよ。でなけりゃ、たいした望みをもってない人たちだ……。」
二人は丘の頂きに着いていた。やさしく抱擁し合った。小さな行商人は、疲れた足取りで去っていった。クリストフはその遠ざかってゆく姿をながめながら、じっと考えに沈んだ。彼は叔父《おじ》の言葉をみずからくり返した。
「我が為し得る程度を[#「我が為し得る程度を」に傍点]。」
そして彼は微笑《ほほえ》みながら考えた。
「そうだ……それでもやはり……十分だ。」
彼は町の方へ帰りかけた。堅くなった雪が、靴の下で音をたてた。冬の鋭い朔風《さくふう》が、丘の上に、いじけた樹木の裸枝を震わしていた。その風は、彼の頬を赤くなし、彼の皮膚を刺し、彼の血を鞭《むち》うった。下の方には、人家の赤い屋根が、まぶしい寒い日の光に笑っていた。空気は強く酷《きび》しかった。凍った大地は、辛辣《しんらつ》な歓喜を感じてるがようだった。クリストフの心も大地と同じだった。彼は考えていた。
「俺も眼を覚ますだろう。」
彼の眼にはまだ涙があった。彼は手の甲でそれをぬぐった。そして霧の帷《とばり》の中にはいってゆく太陽を、微笑みながらながめた。雪を含んだ重い雲が、強風に吹きたてられて、町の上を通っていた。彼はその雲に向って軽侮の身振りをした。氷のような風が吹いていた……。
「吹け、吹け!……俺をどうにでもしろ! 俺を吹き送れ!……俺は行先をよく知ってるのだ。」
底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年8月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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