方、何をしてきたのであったか? 自分の神のために、自分の芸術のために、自分の魂のために、何をしてきたのであったか? 自分の永遠のために、何をしてきたのであったか? 失われ濫費され汚《けが》されない日は、一日もなかった。一つの作品もなく、一つの思想もなく、一つの持続した努力もなかった。たがいに破壊し合う欲念の混乱。風、埃《ほこり》、虚無……。望んでもなんの甲斐《かい》があったろう? 望んだことは何一つなしていなかった。望んだことの反対をばかりなしていた。なりたくなかったものになってしまった、というのが彼の生活の総勘定であった。
 彼は少しも寝なかった。朝の六時ごろ(まだ暗かった)、ゴットフリートが出発の支度《したく》をする音が聞こえた。――ゴットフリートはそれ以上足を留めようと思っていなかった。町を通るついでに、いつものとおり、妹と甥《おい》とを抱擁しにやって来たのであった。でも翌朝はまた出かけると、前もって言っておいた。
 クリストフは降りて行った。苦悶の一夜のために蒼《あお》ざめて落ちくぼんだ彼の顔を、ゴットフリートは見た。彼はクリストフにやさしく微笑《ほほえ》んでやり、ちょっといっしょに来ないかと尋ねた。未明に二人はいっしょに出かけた。何も語る必要はなかった。たがいに了解していた。墓地のそばを通ると、ゴットフリートは言った。
「はいろうよ、ね。」
 彼はこの地へ来るとかならず、ジャン・ミシェルとメルキオルとを訪れていた。クリストフはもう一年も墓参をしたことがなかった。ゴットフリートはメルキオルの墓の前にひざまずいた、そして言った。
「このお二人がよく眠るように、そして私たちを悩ますことのないように、お祈りをしよう。」
 彼の考えはいつも、不思議な迷信と明るい分別とが交り合っていた。クリストフは時としてそれに驚かされることがあった。しかしこんどは、その考えをよく了解した。二人は墓地を出るまで、それ以上何にも言わなかった。
 きしる鉄門をまたしめてから、二人は壁に沿って、雪の滴《したた》りが落ちてる墓地の糸杉《いとすぎ》の下の小道をたどり、眼覚めかけてる寒そうな畑中を歩いて行った。クリストフは泣きだした。
「ああ、叔父《おじ》さん、」と彼は言った、「僕は苦しい!」
 彼の恋の経験については、ゴットフリートを困らすだろうという妙な懸念から、あえて語り得なかった。そして、自分の恥ずかしいこと、凡庸なこと、卑劣なこと、誓いを破ったこと、などを話した。
「叔父さん、どうしたらいいでしょう? 僕は望んだ、たたかった。そして一年たっても、やはり前と同じ所にいる。いや同じ所にもいない! 退歩してしまった。僕はなんの役にもたたない、なんの役にもたたないんです。生活を駄目《だめ》にしてしまったんです、誓いにそむいたんです!……」
 二人は町を見晴す丘に上りかけていた。ゴットフリートはやさしく言った。
「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎《かんじん》なことは、ねえ、望んだり生きたりするのに飽きないことだ。その他のことは私たちの知ったことじゃない。」
 クリストフは絶望的にくり返した。
「僕は誓いに背いたんです!」
「聞こえるかい?……」とゴットフリートは言った。
 (田舎《いなか》で鶏が鳴いていた。)
「あの鶏《とり》も皆、誓いに背いただれかのためにも歌ってるんだ。私たちのめいめいのために、毎朝歌ってくれる。」
「もう僕のために、」とクリストフは切なげに言った、「鶏も歌ってくれない日が来るでしょう……明日のない日が。そして僕の生活はどうなってることでしょう?」
「いつだって明日はあるよ。」とゴットフリートは言った。
「でも、望んだってなんの役にもたたないんなら、どうしたらいいでしょう?」
「用心をするがいい、そして祈るがいい。」
「僕はもう信じていないんです。」
 ゴットフリートは微笑《ほほえ》んだ。
「信じていないとしたら、生きていられないはずだ。だれでも信じてるものだ。祈るがいいよ。」
「何を祈るんです?」
 真赤《まっか》な冷たい地平線に出かかってる太陽を、ゴットフリートは彼にさし示した。
「日の出にたいして、信心深くなければいけない。一年後のことを、十年後のことを、考えてはいけない。今日《こんにち》のことを考えるんだよ。理屈を捨ててしまうがいい。理屈はみんな、いいかね、たとい道徳の理屈でも、よくないものだ、馬鹿げたものだ、害になるものだ。生活に無理をしてはいけない。今日《こんにち》に生きるのだ。その日その日にたいして信心深くしてるのだ。その日その日を愛し、尊敬し、ことにそれを凋ませず、花を咲かすのを邪魔しないことだ。今日《きょう》のよう
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