彼と仲直りしたいと思ってはいなかったのである。彼はせがんだ。ちょっと他の者から離れて自分の言うことを聞いてくれとその耳にささやいた。彼女はかなり不愛想な様子でついてきた。二人がだいぶわきにそれて、ミルハからもエルンストからも見られない所まで来ると、彼はふいに彼女の手を取り、許しを乞《こ》い、林の中の枯葉の上に、彼女の前にひざまずいた。こんなに仲違いしたままではもう生きておれないと彼は言った。もう散歩や麗わしい天気を楽しむこともできない。もう何物も楽しめない。彼女から愛してもらいたいのだった。なるほど彼は、正しくないこともしばしばあり、乱暴であり嫌味《いやみ》であることもあった。彼は彼女に許しを懇願した。罪は彼の愛そのものにあったのだ。愛のうちに何か凡庸《ぼんよう》なものがあることを、二人のなつかしい過去の思い出にまったくふさわしいものでなければ何物も、堪え忍ぶことができなかったのだ。彼は過去の思い出を、最初の邂逅《かいこう》やいっしょに過した初めの日々を、彼女に思い起こさした。いつも変らず彼女を愛しているし、永久に愛するだろう、と彼は言った。どうか遠のいてくれるな! 自分にとっては彼女がすべてである……。
アーダは彼の言葉に耳を傾けながら、微笑《ほほえ》みを浮かべ、落着きを失い、ほとんど感動していた。彼女は彼にやさしい眼つきをしてやった。たがいに愛していてもう怒《おこ》ってはいないと告げる眼つきだった。二人は抱擁し合った。そして寄り添いながら、落葉した林の中を歩いて行った。彼女はクリストフをかわいいと思い、彼のやさしい言葉に満足していた。しかし頭にもってる悪い思いつきを捨てはしなかった。でもさすがに躊躇《ちゅうちょ》され、先刻ほど気が進まなかった。それでもやはり計画どおりを実行した。なぜか? それをだれが言い得よう……。先刻みずから実行を誓ったからであるか?……そんなことがだれにわかるものか。おそらくは、自分が自由であるということを、恋人に証明してやり、自分自身に証明してやるために、彼を欺くのがその日はことに面白く思えたのかもしれなかった。彼女はそれで恋人を失うとは考えていなかった。失いたくはなかった。最も確かに恋人をとらえると信じていた。
一同は森の中の木立まばらな所に到着した。そこから二つの小道が分れていた。クリストフは一方の道をとった。エルンストは目的の丘の頂へは他方の道の方が早く着けると言い出した。アーダも同じ意見だった。クリストフはたびたび来て道をよく知っていたので、二人が間違ってると主張した。彼らはどちらも譲らなかった。そしてためしてみようということになった。どちらも自分の方が先に着くと誓った。アーダはエルンストといっしょに出かけた。ミルハはクリストフに従った。彼女は彼の方がほんとうだと信じてるらしいふうをしていた。そして「いつもあれだ」と一言つけ加えた。クリストフは戯れを本気にとっていた。そして負けるのがきらいだったから、足早に、ミルハが困るくらい早く歩き出した。ミルハはちっとも彼ほど急いではいなかった。
「まあそんなに急ぐことはないわ。」と彼女は例の皮肉な落着いた調子で言った。「私たちが先に着くにきまっててよ。」
彼はある懸念にとらえられた。
「なるほど、」と彼は言った、「少し早く歩きすぎるようだ。冗談じゃない。」
彼は足をゆるめた。
「だが僕は知ってる、」と彼はつづけて言った、「向うでは確かに、先に着くために駆けてるよ。」
ミルハは笑い出した。
「いいえ、心配しなくってもいいわ!」
彼女は彼の腕にぶら下り、彼にしかと寄り添っていた。クリストフより少し背が低いので、歩きながら、その怜悧《れいり》な甘えた眼で彼の方を見上げていた。彼女はまったくきれいで誘惑的だった。彼は彼女を見違えたような気がした。彼女くらい変りやすい者はなかった。普通は少し蒼《あお》ざめた脹《は》れぼったい顔をしていたが、ちょっとした興奮や、楽しい考えや、あるいは人の機嫌《きげん》をとりたい心が起こると、それだけでもう、お婆《ばあ》さんじみた様子がなくなり、頬《ほお》には赤味がさし、眼の下やまわりの眼瞼《まぶた》の皺《しわ》が消え、眼つきに光を帯び、そして顔立ち全体に、アーダの顔に見られないような青春と活気と機知とが浮かんでくるのだった。クリストフはその変化に驚いた。彼は眼をそらした。彼女と二人きりなのが少し不安だった。彼女が煩わしかった。彼は彼女の言ってることには耳を傾けず、返辞をせず、あるいはでたらめの返辞をした。そしてアーダのことだけを考えていた――考えたかった。アーダが先刻見せたやさしい眼のことを思った。恋しさで胸がいっぱいになった。清らかな空に細い小枝を伸してる林の景色がいかに美しいかを、ミルハは彼に見とれさせたがっていた
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