張り込まれ、そこで数杯のシャンペンを飲んだのだった。彼は眠ることができないので起き上った。ある楽想《がくそう》が頭につきまとっていた。睡眠中に自分を苦しめたのはこれだなと彼は思った。そしてそれを書いてみた。読み返してみると、たいへん悲しいものであるのを見てびっくりした。書く時にはなんらの悲しみも感じてはいなかった、少なくともそうらしかった。しかしながら、いつかも、悲しんでる時に、癪《しゃく》にさわるほど快活な音楽しか書けなかったことがあるのを、思い出した。でそのことは、それ以上考えつめなかった。自分の内部の世界の不思議さには、訳はわからないながらも慣れきっていた。彼はそれからすぐにまた眠って、翌朝になると、もう何にも思い出さなかった。
彼は三、四日旅を長引かした。帰ろうと思えばすぐ帰れることがわかっていたので、旅を長引かすのが面白かった。急いで帰る必要もなかった。そして帰途の汽車の中で、彼は初めてザビーネのことを考えた。手紙も書き送らないでいた。もらってるかもしれない手紙を郵便局へ受取りに出かけて行くこともしなかったほど、呑気《のんき》であった。彼はそうして沈黙してることに、ひそかな楽しみを見出していた。かなたには自分を待ってる人がいること、自分を愛してる人がいることが、わかっていた。……愛してる? 彼女はまだかつてそれを彼に言わなかった。彼はかつてそれを彼女に言わなかった。しかしもとより口に言うまでもなく、二人はそれを知っていた。とは言え、最も貴重なのは確実な告白であった。なぜ二人は、それをするのにあれほど長く待ったのであろうか。告白を口に出そうとすると、いつも何かが――ある偶然事が、ある邪魔物が――それを妨げたのだった。なぜか? なぜなのか? いかに多くの時を二人は失ったことだろう! 彼は恋しい人の口からその大事な言葉が出るのを聞きたくてたまらなくなった。彼はその言葉を彼女に言いたくてたまらなくなった。そして人のいない車室の中で、それを声高く言ってみた。近くなるに従って、焦燥の念で胸が迫ってきた、一種の苦悶《くもん》で……。もっと早く走れ! さあもっと早く! ああ、一時間たてば彼女に会えるのだと考えると!……
彼が家へ戻ったのは朝の六時半だった。だれもまだ起きていなかった。ザビーネの部屋の窓はしまっていた。彼は彼女に足音を聞かれまいとして、爪先《つまさき》で中庭を通りすぎた。彼女をふいに驚かしてやろうと楽しんでいた。彼は自分の部屋へ上っていった。母は眠っていた。彼は音をたてずに服装《みなり》をととのえた。腹がすいていた。しかし戸棚《とだな》を捜したらルイザが眼覚めはすまいかと恐れた。中庭に足音が聞えた。そっと窓を開いて見ると、例のとおりローザがまっ先に起き上って、掃除を始めてるのであった。彼は小声で呼んだ。彼女は彼の姿を見て、うれしい驚きの身振りをした。それからいかめしい様子をした。彼はまだ彼女から恨まれてるなと考えた。しかし非常に気が晴々していた。彼女のそばへ降りて行った。
「ローザさん、ローザさん、」と彼は快活な声で言った、「何か食べる物をくださいよ。くれなけりゃあなたを食っちまう。腹がすいてたまらない!」
ローザは微笑《ほほえ》んだ。そして彼を一階の台所へ連れていった。彼に牛乳を一|碗《わん》ついでやりながら、旅や音楽会などのことをしきりに尋ねないではおかなかった。しかし彼が快くそれに答えているのに――(帰ってきた喜びのために彼は、ローザの饒舌《じょうぜつ》に出会ってもかえってうれしいくらいだった)――ローザはにわかに、問いの中途で口をつぐんだ。彼女は悲しげな顔をし、眼をそらし、何かが心にかかるらしかった。それからまたしゃべりだした。しかし彼女はそれをみずからとがめるらしく、またぴたりと言葉を途切らした。彼もついにそれに気がついて言った。
「いったいどうしたんです。僕に不平なんですか?」
彼女は否と言うために、強く頭を振った。そして例のとおりだしぬけに、彼の方を向きながら両手でその腕をとらえた。
「おう、クリストフさん!……」と彼女は言った。
彼ははっとした。手にもっていたパンを取り落とした。
「え、なんです?」と彼は言った。
彼女はくり返した。
「おう、クリストフさん!……たいへん悲しいことが起こったの……。」
彼はテーブルを押しやった。そして口ごもった。
「ここで!」
彼女は中庭の向う側の家をさし示した。
彼は叫んだ。
「ザビーネさんが!」
彼女は泣いた。
「死にました。」
クリストフはもう何にも眼にはいらなかった。彼は立上った。倒れるような気がした。テーブルにつかまった。上にのってた物を皆ひっくり返した。大声にわめきたかった。ひどい苦痛をなめた。※[#「口+区」、第4水準2−3−68]吐
前へ
次へ
全74ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング