。彼女は扉のそばに釘《くぎ》付けになって、身動きもせず、凍えきり、歯をうち合して震え、扉を開く力もなく、床につく力もなかった……。
暴風雨はなおつづいて、樹木を鳴らし、家の戸をきしらしていた……。二人はおのおの、身体は疲れ果て、心は悲しみに満ちて、自分の寝床へもどった。鶏が嗄《しわが》れた声で鳴いた。曙《あけぼの》の最初の光が、一面に濛《もう》と曇った窓ガラスを通して現われた。降りしきる雨におぼれた、悲しい蒼白《あおじろ》い曙であった。
クリストフはできるだけ早く起き上った。彼は台所へ降りてゆき、人々と話をした。彼は出発を急ぎ、ザビーネと二人きりになるのを恐れた。お上さんが出て来て、ザビーネの気分の悪いことを告げ、昨日の散歩に風邪《かぜ》をひいて、その朝出発しがたいことを言った時、彼はほとんど安堵《あんど》の思いをした。
帰りの道中は痛ましかった。彼は馬車を断った。そして、地面や樹木や人家を喪布《もぬの》のように包んでる黄色い霧の中を、ぬれた野を通って、徒歩で帰っていった。光と同じく、生命も消え失《う》せてるかと思われた。すべてが幽鬼のようなありさまをしていた。彼自身も幽鬼のようであった。
家へ帰ってみると、皆|怒《おこ》った顔をしていた。彼がザビーネといっしょに、どこでだか分ったものじゃない、一夜を過したことを皆いまいましく思っていた。彼は自分の室にとじこもって、仕事にかかった。ザビーネは翌日帰って来たが、やはり室に閉じこもった。二人はたがいに会わないように用心した。それに天気が雨がちで寒かった。どちらも外へ出かけなかった。二人はしめ切った窓ガラスの影から見合った。ザビーネは沢山着込んで暖炉の隅《すみ》にうずくまり、考えに沈んでいた。クリストフは書き物の中に埋っていた。二人は遠慮気味に窓から窓へ会釈をかわした。二人とも自分が何を感じてるか明確に知ってはいなかった。彼らはたがいに恨み、自分自身を恨み、事物を恨んでいた。農家の一夜は考えの外におかれていた。彼らはそれに顔を赤くした。そして自分たちの熱狂を多く恥じてるのか、熱狂に打ち負けなかったことを多く恥じてるのか、自分でもわからなかった。たがいに顔を合せるのがつらかった。なぜなら、顔を見合すと避けたく思ってる記憶が浮かんできたから。そしてたがいに同じ思いで、どちらも室の奥に引込んで、すっかりおのれを忘れてしまおうとした。しかしそれはできなかった。そして彼らはたがいのひそかな敵意を苦しんだ。クリストフはある時、ザビーネの冷たい顔の上に、隠れた怨恨《えんこん》の表情を読み取り得て、それが長く頭から離れなかった。彼女もやはり同じように、そういう考えに苦しんでいた。いくらそれとたたかい、それを打消してみても、それから免れることはできなかった。自分の心のうちに起こったことをクリストフに推察されたという恥ずかしさが、それに加わっていた――そして身を提供した恥ずかしさが……身を提供しながら与えなかった恥ずかしさが。
クリストフは音楽会のために、ケルンやデュッセルドルフへ行く機会を進んでとらえた。家を遠く離れて二、三週間過すのは、きわめて愉快なことだった。それらの音楽会の準備と、そこで演奏しようと思ってる新曲の創作とに、彼はすっかり没頭して、ついに煩わしい思い出を忘れてしまった。ザビーネもまた例のぼんやりした生活を始めて、思い出は頭から消え失せた。二人はたがいのことを平気で考えるようになった。ほんとに愛し合っていたのであろうか? 彼らはそれを疑ってみた。クリストフはザビーネに別れも告げないでケルンへ出発しようとした。
彼の出発の前日、どうしたのか二人はまた近づいた。皆が教会堂へ行ってる例の日曜の午後であった。クリストフも旅行の仕度を済ますために出かけていた。ザビーネは小さな庭に腰をおろして、夕日に当っていた。クリストフが帰ってきた。彼は急いでいた。初めは、彼女の姿を見ながら、会釈をしたまま通りすぎようとした。しかしその瞬間に、彼は何かに引止められた。それはザビーネの蒼白《あおじろ》い顔色であったか、あるいは、悔恨とか懸念とか情愛とかの、何か言いがたい感情であったか?……とにかく彼は立止って、ザビーネの方をふり向いた。そして庭の垣根《かきね》によりかかって、晩の挨拶《あいさつ》をした。彼女はなんとも答えないで、手を差出した。彼女の笑顔には温良さが満ち充《み》ちていた――彼がかつて彼女に見受けなかったほどの温良さが。彼女の身振には「仲直り……」という意味が見えていた。彼は垣根越しにその手をとらえ、身をかがめてそれに接吻《せっぷん》した。彼女は少しも手を引込めようとはしなかった。彼はそこにひざまずいて、「私は愛してる」と言いたかった。……二人は黙って顔を見合った。しかし少しも意中を明か
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