の炎をじっと見つめていた。クリストフの決断に影響するのを恐れてるもののようだった。しかしクリストフが承諾の一言を言った時、彼女は彼の方へ赤い――(それは火の反射だったろうか?)――顔を向けた。彼は彼女が満足してるのを見てとった。
楽しい一晩……。外には雨があばれていた。火は黒い暖炉の中で、金色の火花を無数に散らしていた。皆はそのまわりに丸く集まっていた。彼らの奇怪な影が壁の上に揺いでいた。粉屋はザビーネの娘に、手で種々な影を作る仕方を見せていた。子供は笑っていた。それでもすっかり安心しきってはいなかった。ザビーネは火の上にかがみ込んで、重い火箸《ひばし》で機械的に火をかきたてていた。彼女は少しぐったりしていた。家庭のことを述べたてる嫂《あによめ》のおしゃべりに、耳も傾けずただうなずきながら、微笑《ほほえ》んで夢想にふけっていた。クリストフは粉屋と並んで影の中にすわり、子供の髪を静かに引っ張っていた。そしてザビーネの微笑をながめていた。彼女は彼から見られてることを知っていた。彼は彼女から微笑《ほほえ》みかけられてることを知っていた。二人にはその晩じゅうただの一度も、たがいに話し合う機会もなく、正面に顔を見かわす機会もなかった。また二人はそうしようとも求めなかった。
二人は晩早く別れた。彼らの寝室は隣合っていた。内部に扉《とびら》が一つあって通じ合っていた。クリストフは我知らず、ザビーネの室の方に※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かけがね》がおろしてあることを確かめた。彼は床にはいって、眠ろうとつとめた。雨が窓ガラスを打っていた。風が煙筒の中でうなっていた。階下《した》の扉《とびら》が一つばたばた動いていた。一本の白楊樹《はくようじゅ》が嵐《あらし》に打たれて、窓の前でみりみり音していた。クリストフは眼を閉じることができなかった。彼女のそばに同じ屋根の下にいることを考えた。彼女とは壁一重越しであった。ザビーネの室にはなんの音も聞えなかった、しかし彼女の姿が見えるように思われた。寝床の上に起き上って、壁越しに小声で彼女を呼び、愛のこもった熱烈な言葉を言い送った。そして、なつかしい声が自分に答えてくれ、自分の言った文句をくり返し、低く自分の名を呼んでるのが、聞こえるような気がした。自分一人で問うたり答えたりしてるのか、あるいは彼女が実際口をきいてるのか、彼にはわからなかった。少し高い呼び声をきくと、じっとしてることができなかった。彼は寝台から飛び出した。暗夜の中を手探りで、扉に近寄った。彼はそれを開きたくなかった。その扉がしまってるので安心を覚えていた。そしてふたたびそのハンドルに触れると、扉の開くのが眼についた……。
彼ははっとした……。また静かに扉をしめ、また開き、も一度しめた。先刻扉は締まっていたではないか。そうだ、彼はそれを確かに知っていた。では誰が開いたのか。彼は胸がとどろいて息がつけなかった。寝台によりかかった。腰をおろして息をついた。彼は情熱に圧倒された。そして身動きができなくなった。身体じゅうが震えた。彼はその未知の歓喜を、数か月来呼び求めてはいたが、それが今自分のそばにそこにあって、もう何も間を隔てる物がない時になって、恐怖の念をいだいた。恋にとらわれてる激越なこの青年は、その欲求が実現されかかるとにわかに、恐怖と嫌悪《けんお》とを感ずるのみだった。彼はその欲望を恥じ、自分が将《まさ》にせんとしてることを恥じた。彼はあまりに愛していたので、愛するものをあえて享楽することができず、むしろそれを恐れた。悦《よろこ》びを避けるためには、何事でもなしたかも知れなかった。愛することは、ああ愛することは、愛するものを涜《けが》すことによってしか可能ではないのか?……
彼は扉のそばにまたやって来ていた。そして、愛欲と懸念とに震えながら、錠前に手をかけながら、開こうと決心することができなかった。
そして扉の向う側では、床石に素足をつけ、寒さに震えながら、ザビーネが立っていた。
かくて二人は躊躇《ちゅうちょ》した……幾何《いくばく》の間かを……幾分間かを、幾時間かを。……二人はたがいにそこにいることを知らなかった、しかもまた知っていた。二人はたがいに腕を差出していた――彼は激しい愛欲に押しつぶされてはいる勇気もなく――彼女は、彼を呼び、彼を待ち、彼がはいって来はすまいかとうち震えながら……。そしてついに彼がはいろうと意を決したのは、彼女が思い切って※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かけがね》をしてしまった時であった。
すると彼は自分を狂人だとした。彼は全力をこめて扉にのしかかった。口を錠前に押しあてて願った。
「あけて!」
彼はごく低くザビーネを呼んだ。彼女は彼のあえぐ息を聞き得た
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