けないことだとは気づかなかった。そしていつもの頓馬《とんま》さで、その後毎日同じことをやった。
 翌日クリストフは、ローザを傍《かたわ》らに控えながら、ザビーネが出て来るのをむなしく待った。
 その次の日には、ローザ一人きりだった。二人は彼女と争うのをやめていた。しかし彼女がかち得たものは、クリストフの恨みだけだった。クリストフは唯一の幸福たる大事な晩の楽しみを奪われたのを、非常に憤った。自分の感情にばかりふけって、かつてローザの感情を察してやろうともしなかっただけに、彼女をいっそう許しがたく思った。
 かなり以前からザビーネは、ローザの意中を知っていた、自分の方で愛してるかどうかを知る前に、すでに彼女はローザが嫉妬《しっと》を感じてるのを知っていた。しかし彼女はそれについてなんとも言わなかった。そして勝利を確信してる美しい女にありがちの残忍さをもって、彼女は黙って嘲弄《ちょうろう》半分に、拙劣な敵の徒労をながめていた。

 ローザは戦場を自分の手に収めながらも、自分の戦術の結果を憐れにもうちながめた。彼女にとって最善の策は、強情を張り通さないことであり、クリストフを平穏にさしておくことであった、少なくとも当分のうちは。ところが彼女はそうしなかった。そして最悪の策は彼にザビーネのことを話すことだったが、彼女はまさしくそれをした。
 彼女は胸を踊らせながら、彼の意中を知ろうとして、ザビーネはきれいだとこわごわ言ってみた。非常にきれいだとクリストフは冷やかに答え返した。ローザはみずから求めたその答えを予期していたものの、それを耳にきくと心に打撃を受けた。ザビーネがきれいであることを彼女はよく知っていた。しかしかつてそれを気に止めなかった。ところが今初めて、クリストフの眼を通して彼女をながめていた。そして見て取ったのは、彼女のすっきりした顔だち、小さな鼻、かわいい口、ほっそりした身体、優美な動作……。ああどんなにか切ないことだった!……そういう身体になれるならば、何物に換えても惜しいとは思わなかった。自分の身体よりあの身体の方を人が好む訳は、あまりによくわかった。……自分の身体は!……こんな身体に生まれるとはなんの因果だったろう。なんという重々しい身体だろう。なんと醜く見えることだろう。なんと厭らしいことだろう。そして、それから解放されるには死より外に道はないと考えると!……彼女はきわめて傲慢《ごうまん》であり同時に謙譲だったから、愛されないことに苦情を言いはしなかった。苦情を言うなんらの権利もなかった。そしてなおいっそう自分を卑下しようとつとめた。しかし彼女の本能はそれに反抗した。……否、それは不正だ!……なぜこんな醜い身体は自分にだけあって、ザビーネにはないのか。……なぜ人はザビーネを愛するのか。ザビーネは人に愛されるだけのことを何をしたか。……ローザの容赦ない眼に映じたザビーネは、怠惰で、やりっぱなしで、利己的で、だれにも構わず、家のことも子供のこともまた何にも気を止めず、自分の身だけをかわいがり、生きてるのもただ、眠ったりぶらついたりなんにもしないでいるためばかりだった。……そしてそんなことで、人に好かれてるのだ……クリストフに好かれてるのだ……あれほど厳格なクリストフに、何よりもローザが尊重し感服してるクリストフに! それはあまりに不正なことだった。またあまりに馬鹿げたことだった。……どうしてクリストフはそれに気づかなかったのか?――彼女は時々、ザビーネにとってはあまりありがたくない意見を、クリストフの耳に入れざるを得なかった。彼女はそうしたくはなかったが、自分で控えることができなかった。そしてはいつもみずから後悔した。なぜなら、彼女はきわめて善良で、だれの悪口をも言うことを好まなかったから。それになおいっそう後悔したわけは、クリストフがいかに夢中になってるかを示す残酷な答えを、いつもそれから招き出した。クリストフは自分の愛情を傷つけられると、相手を傷つけることばかり求めた。そしていつもうまくいった。ローザはなんとも答え返さないで、泣くまいと我慢しながら唇《くちびる》をきっと結び、頭をたれて去っていった。彼女は自分が悪かったのだと考えた。クリストフにその愛する者の悪口を言って心を痛めさしたから、これも当然の報いだと考えた。
 ローザの母の方は、それほど我慢強くなかった。何にでもよく眼が届くフォーゲル夫人は、オイレル老人とともに、クリストフがよく隣の若い女と話をしてることに、間もなく気づいた。恋物語を推察するにかたくはなかった。他日ローザとクリストフとを結婚させようという彼らのひそかな計量は、そのために障害を受けた。相談もせずに勝手にきめたことだし、クリストフにもわかってるはずだとは言えなかったけれど、それでも彼らにとっては
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