じて、室からぬけ出した。悪戯《いたずら》をする小学生徒のように、家の外に忍び出た。いつまでたってもその仕事が終えるものかと軽蔑《けいべつ》的な口をきいたクリストフを、少しやりこめてやるのが楽しみだった。この憐《あわ》れな娘は、自分にたいするクリストフの感情がどんなものだか、いたずらに知ってるばかりだった。自分で人に会うのがうれしいものだから、他人も自分に会えばうれしいものだといつも考えがちであった。
彼女は表に出た。家の前にはクリストフとザビーネとが腰かけていた。ローザの心は悲しくなった。けれども彼女は、その不穏当な印象を受けてもやめなかった。彼女は快活にクリストフを呼びかけた。その鋭い声音を静かな夜の中に聞いて、クリストフは誤った音符を聞いたような気がした。彼は椅子《いす》の上でぞっとし、怒りに顔をしかめた。ローザは彼の鼻の先に、得意然として刺繍《ししゅう》を振ってみせた。クリストフは苛立《いらだ》ってそれを押しのけた。
「できあがったわ、できあがったわ!」と彼女は言い張っていた。
「ではも一つ始めたらいいでしょう。」とクリストフは冷淡に言った。
ローザはまごついた。喜びはすべて消えてしまった。
クリストフは意地悪く言いつづけた。
「そしてあなたがそれを三十もこしらえたら、すっかりお婆《ばあ》さんにでもなったら、生涯《しょうがい》を無駄《むだ》にはしなかったと自分で考えることぐらいはできるでしょう。」
ローザは泣きたくなっていた。
「まあ意地悪だこと!」と彼女は言った。
クリストフは恥ずかしくなった。そして二、三言親切な言葉をかけてやった。彼女はごくわずかなことにも満足しがちだったので、すぐにまた信頼してしまった。そして盛んに騒々しいおしゃべりをやりだした。家の中での習慣のために、低い声で話すことができずに、大声にわめきたてた。クリストフはいくら我慢をしても、不機嫌《ふきげん》さを隠すことができなかった。初めは苛立った簡単な言葉を返してやったが、次にはもうなんとも返辞をせず、背中を向けて、彼女のがらがらしたおしゃべりのままに歯ぎしりをしながら椅子《いす》の上にやきもきした。ローザは彼がじりじりしてるのを見、黙らなければいけないことを知っていた。それでもなお激しくしゃべりつづけるばかりだった。ザビーネは数歩先の暗がりの中で黙って、皮肉な平静さでその光景を見ていた。それから飽きてきて、その晩はもう駄目になったと感じながら、立上って家にはいった。クリストフは彼女がいなくなってからようやく、彼女の立去ったことに気づいた。そして自分もすぐ立上り、言い訳もしないで、冷やかな挨拶《あいさつ》を言い捨てて、ふいと行ってしまった。
ローザは街路に一人残って、彼がはいって行った戸をがっかりしながらながめていた。涙が出て来た。彼女は急いで家にはいり、母と口をきかないで済むようにと、足音をたてないで自分の室に上ってゆき、大急ぎで着物をぬぎ、一度寝床にはいって蒲団《ふとん》をかぶると、そのまますすり泣き始めた。彼女は今起こったことを考えてみようとはしなかった。クリストフがザビーネを愛してるかどうか、クリストフとザビーネとが自分を辛抱することができないかどうか、それをみずから尋ねてみなかった。彼女は知っていた、万事終ったことを、もはや生活には意義がなくなったことを、ただ死ぬより外はないことを。
翌朝になると、また考慮の力が永久のいたずらな希望を伴って彼女に帰ってきた。前夜の出来事を一々思い起しながら、それをあれほど重大に考えたのは間違いだったと思い込んだ。もちろんクリストフは彼女を愛していなかった。がそれは、こちらから愛してるのでついには向うからも愛されるだろうという、ひそかな考えを心の底に秘めて、あきらめていた。しかしザビーネと彼との間に何かあるということを、どの点で見て取られたのか。あんなに賢い人が、だれの目にも下らなく平凡に見える女などを、どうして愛することができようか。彼女は安心を覚えた。――がやはり、クリストフを監視し始めた。その日は何にも眼に止らなかった、なぜなら、眼に止るようなことが何にもなかったから。しかしクリストフの方では、彼女が終日自分のまわりをうろうろしてるのを見て、なぜとなく妙な苛立《いらだ》ちを覚えた。晩に彼女がまた往来へ出て来て、思い切って、二人の横に腰をおろすと、彼の苛立ちはさらに激しくなった。それは前夜の光景の反復であった。ローザが一人でしゃべった。しかしザビーネは前夜ほど長く待たないで、間もなく家へはいった。クリストフもそれに倣《なら》った。ローザはもはや、自分のいるのが邪魔になってることを、みずから隠すわけにゆかなかった。しかしこの不幸な娘は自分を欺こうとつとめた。自分の心をごまかそうとするのは、最もい
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