てる顔……刻々に落ちくぼんでゆく顔貌《がんぼう》……ポンプにでも吸われるように、全存在が空虚のうちに沈み込んでゆく様……そして忌わしい臨終のあえぎ、水面で破《さ》ける泡《あわ》にも似たその機械的な呼吸、魂がもはやなくなっても、なお頑固に生きんとつとめる肉体の最後の息吹《いぶ》き。――それから、頭は枕から滑り落ちた。そしてすべてがひっそりとなった。
数分の後、嗚咽《おえつ》と祈祷と死の混雑との中に、子供が真蒼《まっさお》な顔をし、口を引きつらし、眼を見張り、扉のハンドルを痙攣《けいれん》的に握りしめてるのを、ルイザは見つけた。彼女は走り寄った。彼はその腕の中で、神経の発作に襲われた。家に連れて行かれた。意識を失った。寝床の中で気がついた。ちょっとの間一人置きざりにされていたので、恐怖のあまり声をたてた。新たに発作が起こった。また気を失った。その夜と翌日いっぱいとは、熱に浮かされたまま過ごした。それから心が落着いて、二日目の夜は、深い眠りに落ち、次の日の昼ごろまで眠りつづけた。室の中をだれか歩いてるような気がし、母が寝床の上に身をかがめて自分を抱いてくれてるような気がした。遠い静かな鐘の音が聞えるように思った。しかし身を動かしたくなかった。夢の中にいるようだった。
彼が眼を開いた時、叔父のゴットフリートが寝台の足下に腰掛けていた。クリストフはぐったりしていて、何にも覚えていなかった。次に記憶が蘇《よみがえ》ってきて、泣き始めた。ゴットフリートは立上がり、彼を抱擁した。
「どうした、坊や、どうした?」と彼はやさしく言っていた。
「ああ、叔父《おじ》さん、叔父さん!」と子供は彼にすがりついて泣声でうなった。
「お泣きよ、」とゴットフリートは言った、「お泣きよ!」
彼も泣いていた。
クリストフは少し心が静まると、眼を拭《ふ》いて、ゴットフリートを眺めた。ゴットフリートは彼が何か尋ねたがってるのを覚《さと》った。
「いや、」と彼は子供の口に指をあてながら言った、「口をきくもんじゃない。泣くのはいい、口をきくのはいけない。」
子供は承知しなかった。
「無駄《むだ》だよ。」
「ただ一事《ひとこと》、たった一つ……。」
「なんだい?」
クリストフは躊躇《ちゅうちょ》した。
「ああ、叔父さん、」と彼は尋ねた、「あの人は今どこにいるの?」
ゴットフリートは答えた。
「神様といっしょにおられるよ。」
しかしそれはクリストフが尋ねてることではなかった。
「いいえ、それじゃないよ。どこにいるのさ、あの人[#「あの人」に傍点]は?」
(肉体の意味であった。)
彼は震え声でつづけて言った。
「あの人[#「あの人」に傍点]はまだ家の中にいるの?」
「けさあの人を葬ったよ。」とゴットフリートは言った。「鐘の音を聞かなかったかい?」
クリストフは安堵《あんど》した。が次に、あの大事な祖父にもう二度と会えないかと考えると、また切なげに涙を流した。
「かわいそうに!」とゴットフリートはくり返して言いながら、憐れ深く子供を眺めた。
クリストフはゴットフリートが慰めてくれるのを待っていた。しかしゴットフリートは無駄だと知って慰めようともしなかった。
「叔父《おじ》さん、」と子供は尋ねた、「叔父さんは、あれが恐《こわ》くはないのかい?」
(彼はどんなにか、ゴットフリートが恐がらないことを望んでいたろう、そしてその秘訣を教えてもらいたかったことだろう!)
しかしゴットフリートは気がかりな様子になった。
「しッ!」……と彼は声を変えて言った。
「どうして恐くないことがあるものか。」と彼はちょっとたって言った。「だが仕方はない。そうしたものだ。逆らってはいけない。」
クリストフは反抗的に頭を振った。
「逆らってはいけないのだ。」とゴットフリートはくり返した。「天できめられたことだ。その思召《おぼしめし》を大事にしなければいけない。」
「僕は大|嫌《きら》いだ!」とクリストフは憎々しげに叫んで、天に拳《こぶし》をさし向けた。
ゴットフリートは狼狽《ろうばい》して、彼を黙らした。クリストフ自身も、今自分の言ったことが恐ろしくなって、ゴットフリートといっしょに祈り始めた。しかし彼の心は沸きたっていた。そして卑下と忍従との言葉をくり返しながらも、一方心の底にあるものは、呪《のろ》うべき事柄とそれを創《つく》り出した恐るべき「者」とにたいする、嫌悪と激しい反抗との感情のみであった。
新しく掘り返されて、底にはあわれなジャン・ミシェル老人が放置されてる土の上を、昼は過ぎ去り、雨夜は過ぎてゆく。その当座メルキオルは、いたく嘆き叫びすすり泣いた。しかし一週間も過ぎないうちに、彼の心からの大笑いをクリストフは耳にした。故人の名前を面前で言われると、彼の顔は伸びて悲しい様子になる。しかしすぐその後で、彼はまた活発に話しだし身振りをやりだす。彼はほんとうに心を痛めている、しかし悲しい感銘の中にとどまっていることができないのである。
消極的で忍従的なルイザは、何事をも受けいれると同様に、その不幸をも受けいれた。彼女は日ごとの祈祷に添えて、も一つ祈祷をしている。几帳面《きちょうめん》に墓地へ行き、あたかも家事の一部ででもあるかのように、墓の世話をしている。
ゴットフリートは、老人が眠ってる小さな四角な地面にたいして、非常にやさしい注意を向けている。その地へもどって来る時には、何か記念になる物や、自分の手でこしらえた十字架や、ジャン・ミシェルが好んでいた花などをもって来る。決してそれを欠かすことがなく、しかも人知れずするのである。
ルイザは時々、クリストフを墓参に連れてゆく。花や木の無気味な飾りに覆《おお》われてるその肥えた土地、さらさらした糸杉の香気に交って日向《ひなた》に漂ってる重々しい匂いが、クリストフはひどく嫌いである。しかしその嫌悪の情を口には出さない。卑怯《ひきょう》のようでもあり不信のようでもあって、気がとがめるからである。彼はたいへん不幸である。祖父の死がたえずつきまとっている。彼はずっと以前から、死とはどんなものであるか知っていたし、それを考えては恐《こわ》がっていた。しかしまだかつて実際に見たことはなかったのである。だれでも初めて死を見る者は、まだ死をも生をも、少しも知っていなかったことに気づく。すべては一挙に揺り動かされる。理性もなんの役にもたたない。生きてると信じていたのに、多少人生の経験があると信じていたのに、実は何にも知っていなかったことがわかり、何にも見ていなかったことがわかる。今まで幻のヴェールに、精神が織り出して眼を覆い、現実の恐ろしい相貌を見えなくする幻のヴェールに、すっかり包まれて生きていたのである。頭にもってた苦悩の観念と、実際血まみれになって苦しむ者との間には、なんらの連結もありはしない。死の考えと、もがき死んでゆく肉と霊との痙攣《けいれん》との間には、なんらの連結もありはしない。人間のあらゆる言葉、人間のあらゆる知恵は、ぎごちない自動人形の芝居にすぎない、現実の痛ましい感銘に比べては。――泥と血とで成った惨めな人間、いたずらな努力を尽して生命を取り止めようとしても、生命は刻々に腐爛《ふらん》してゆく。
クリストフはそのことを、夜昼となく考えていた。臨終の苦悶の記憶に追っかけられ通しだった。恐ろしい呼吸の音が耳には聞えていた。自然がすべて変わってしまった。氷のような靄《もや》が自然を覆《おお》ってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。その破壊の「力」の拳《こぶし》の下にあって、どうにも仕方がないことが、わかっていた。しかしそういう考えは、彼を圧倒するどころか、かえって憤激と憎悪とに燃えたたした。彼は少しも諦《あきら》め顔をしなかった。不可能に向かってまっしぐらに突進していった。額を傷つけようと、自分の方が弱いとわかろうと、さらに意に介しないで、苦悩にたいし反抗することを少しもやめなかった。それ以来彼の生涯《しょうがい》は、許すべからざる「運命」の獰猛《どうもう》さにたいするたえざる争闘となった。
彼の心に纏綿《てんめん》してくる考えは、ちょうど生活の困苦のためにそらされた。ジャン・ミシェル一人で引止めていた一家の零落は、彼がいなくなるとすぐにさし迫ってきた。クラフト一家の者は、彼の死とともに、生活のたよりを大半失ってしまった。貧苦が家にはいってきた。
メルキオルがそれをなおひどくした。彼は縛られてた唯一の監督から解放されると、いっそうよく働くどころか、まったく不品行に身を任してしまった。ほとんど毎夜のように、酔っ払ってもどって来、稼《かせ》いだものを少しももち帰らなかった。それに稽古《けいこ》口もおおかた失っていた。ある時、まったく泥酔《でいすい》の姿をある女弟子の家に現わした。その破廉恥な行ないの結果、どの家からも追い払われた。管弦楽団の間では、父親の追懐にたいする敬意からようやく許されていた。しかしルイザは、今にもふしだらをして免職になりはすまいかと、びくびくしていた。すでにもう彼は、芝居の終るころようやく奏楽席にやって来た晩なんかは、解職すると言っておどかされていた。二、三度は、やって来ることをまったく忘れたことさえあった。それからまた、無茶なことを言ったりしたりしたくてたまらなくなる馬鹿げた興奮の場合には、どんなことでもやりかねなかった。ある晩なんかは、ワルキューレ[#「ワルキューレ」に傍点]のある幕の最中に、自分のヴァイオリン大|協奏曲《コンセルト》をひきたいと考えついた。それを止めさせるのに皆で大骨折をしたほどだった。また、開演中に、舞台の上や自分の頭の中に展開する面白い光景に魅せられて、突然大笑いをすることもあった。そして彼は一同の慰み物になっていた。そしてその滑稽のゆえに、多くのことを大目に見過ごしてもらっていた。しかしそう寛大に見られるのは、厳酷な取扱いを受けるのよりもなおいけないことだった。クリストフにはそれが恥しくてたまらなかった。
子供は今や管弦楽団の第一ヴァイオリニストとなっていた。メルキオルが浮々した気分でいる時には、それを監視したり、時によっては補助してやったり、あるいは無理に黙らしたりすることに、気を配っていた。それは楽なことではなかった。そしていちばんいいのは、まったく父に注意を向けないことだった。そうでないと、酔っ払いは自分が見られてるなと感ずるとすぐに、しかめ顔をしたり、あるいは話をやりだした。クリストフは、父が何かひどいことをやるのが見えやすまいかとびくびくしながら、眼をそらした。彼は自分の職務に我を忘れようとつとめた。しかしメルキオルの無駄口やその隣りの人々の笑い声やを、聞かないわけにはゆかなかった。眼には涙が出て来た。善良な楽手たちは、それに気づいて、彼を気の毒に思った。彼らは笑い声を押えた。クリストフに隠れて父親の噂《うわさ》をするようにした。しかしクリストフは彼らの憐れみを感知していた。自分が出て行くとすぐに嘲弄《ちょうろう》が始まるのを、メルキオルが町じゅうの笑草になってるのを、彼は知っていた。どうにもしようがなかった。それが苦しみの種であった。芝居がはねると、彼は父を家に連れて帰った。父に腕を貸し、その駄弁を聞いてやり、その危い足取りを人に知らせまいと努めた。しかし他人はだれが彼に欺《あざむ》かれる者があったろう? そしてまた、いかほど努力しても、首尾よくメルキオルを家まで連れてゆけることは滅多になかった。街路の曲り角まで来ると、メルキオルは友だちと急な面会の約束があると言いだした。なんと説いても、その約束をまげさせることはできなかった。それにまたクリストフは、ひどい親子争いをして、近所の人に窓から見られるようなことになりたくなかったので、用心してあまり言い張りもしなかった。
生活の金はすべてそちらに取られていた。メルキオルは自分で儲《もう》けただけを飲んでしまうのでは満足しなかった。妻や
前へ
次へ
全23ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング