られる侮辱的なののしりや叱責《しっせき》のもとに、ついに頭を垂れてしまった。それでもやはり、またせしめてやろうと次の機会をねらうのであった。ジャン・ミシェルは将来のことを考えながら、きたるべき悲しいことどもをはっきりと感じた。
「かわいそうな子供たち、」と彼はルイザに言っていた、「もしわしがいなくなったら、皆どうなるだろう。……でも幸いとわしは、」とつけ加えながらクリストフの頭をなでた、「この子がどうにかやってくれるようになるまでは、まだ達者でおられるだろう。」
しかし彼は見当違いしていた。彼はもう生涯の終りに達していた。そしてまただれもそれに気づかなかった。彼は八十歳を過ぎてるのに、髪の毛もそろっており、まだ灰色の毛の交った白い頭髪はふさふさとして、濃い頤髯《あごひげ》には真黒な毛筋も見えていた。歯は十枚ばかりしか残っていなかったが、それで強く噛《か》みしめることができた。食卓についた様子を見ると心強かった。頑健《がんけん》な食欲をもっていた。メルキオルには飲酒を非難していたが、自分は盛んに飲んでいた。モーゼルの白|葡萄《ぶどう》酒をとくに好んでいた。そのうえ、葡萄酒も、ビールも、林檎《りんご》酒も、すべて神の創《つく》り出した逸品ならなんでも、それを賞美する術《すべ》を心得ていた。そして杯の中に理性を置き忘れるほど思慮に乏しくなかった。適度にとどめていた。とはいえその適度というのがまた多量で、もっと弱い理性ならその杯の中に溺《おぼ》れるだろうということも、真実だった。彼は足が丈夫で、眼がよく、疲労を知らない活動力を具えていた。六時にはもう起き上がって、細心に身仕舞をしていた。礼儀に注意し体面を重んじていたからである。家の中に一人で暮していて、みずから万事をやってのけ、嫁に手出しされることをも許さなかった。室をかたづけ、コーヒーの支度をし、ボタンをつけ直し、釘《くぎ》を打ち、糊《のり》張りをし、修繕をした。シャツ一枚になって、家の中を上下に往《ゆ》き来し、アリアに歌劇《オペラ》の身振りを伴わせて、響きわたる好きな低音《バス》で、しきりなしに歌っていた。――その後で、彼は出かけた、どんな天気にも。自分の用件を一つも忘れず果しに行った。しかし時間を守ることはいたって少なかった。知人と議論をしたり、顔を見覚えてる近所の女に冗談を言つたりしてるのが、街路の方々で見られる。愛くるしい若い女と古い友人とを、彼は好きだったのである。そういうふうにして道で手間取って、決して時間を頭においていなかった。けれども食事の時間を通り過すことはなかった。人の家に押しかけて行って、どこででも食事をした。自宅にもどるのは、長く孫たちの顔を眺めた後、晩に、夜になってからだった。寝床にはいると、眼を閉じる前に、古い聖書の一ページを寝ながら読んだ。そして夜中に――一、二時間以上は眠りつづけることができなくなっていたから――起き上がって、時おり買い求めた歴史や神学や文学や科学などの古本を、どれか一冊取上げた。そして手当たりしだいに、面白かろうと、退屈しようと、よくわからなかろうと構わずに、一語もぬかさず、いくページかを読むのであった……また眠気がさしてくるまでは。日曜日には、教会の礼拝式に行き、子供らと散歩をし、球《まり》遊びをした。――かつて病気にかかったことがなかった。ただ足指に少し神経痛の気味があって、聖書を読んでる最中に、夜を呪《のろ》うことがあるばかりだった。その調子でゆくと、百年くらいは生き存《ながら》えられそうに思われた。また彼自身も、百歳を越せないという理由を少しも認めていなかった。百歳で死ぬだろうと人に予言されると、天意による恩恵には制限を付すべきものではないと、世に名高いあの高齢者と同様なことを考えていた。彼が老いてゆくのを認められるのはただ、ますます涙もろくなることと、日に日に怒りっぽくなることばかりだった。ちょっとした我慢がしきれずに、狂気じみた憤怒の発作を起こした。その赭《あか》ら顔と短い頸《くび》とが真赤になった。恐ろしく口ごもって、息がつけないで言いやめなければならなかった。旧友でありまたかかりつけである医者が、自分で用心をするように彼に注意し、憤怒と食欲とをともに節するように注意を与えていた。しかし彼は老人の癖として頑固《がんこ》で、ますます不節制をして虚勢を張っていた。医学と医師とを嘲《あざけ》っていた。死をひどく軽蔑してるふうを装って、少しも死を恐れていないと言い切るためには、長々と弁じたててやめなかった。
ごく暑い夏のある日、たくさん酒を飲んでおまけに議論をした後、彼は家に帰って、庭で働きだした。彼は地を耕すのが好きだった。帽子もかぶらず、日の照る中で、まだ議論のために激昂《げきこう》したまま、疳癪《かんしゃく》まぎれに耘《うな》っていた。クリストフは書物を手にして、青葉|棚《だな》の下にすわっていた。しかし彼はほとんど読んでいなかった。蟋蟀《こおろぎ》の眠くなるような鳴声に耳を貸しながら、夢想に耽《ふけ》っていた。そしてなんの気もなく、祖父の動作を見守っていた。老人はクリストフの方に背中を向けていた。背をかがめて、雑草を取っていた。すると突然、すっくと立上り、両腕を空《くう》に打振り、それから一塊の物質のように、地面へ俯向《うつむ》けにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。クリストフはちょっと笑いたくなった。ところがなお見ると、老人は身動きもしなかった。彼は呼びかけ、そばに駆けつけ、力の限りゆすぶった。恐ろしくなった。そこにかがんで、地面にぴったりついてるその大きな頭を、両手でもち上げようとした。頭は非常に重かったし、彼はぶるぶる震えていたので、やっとのことで少し動かせるばかりだった。けれども、血のにじんだ真白な引きつけてる眼を見た時、彼は恐ろしさのあまりぞっと寒くなった。鋭い叫び声をたてて頭を取落した。駭然《がいぜん》と立上がって、その場を逃げ、表に駆けだした。叫びまた泣いていた。往来を通りかかった一人の男が、彼を引止めた。彼は口もきけなかった。家の方を指し示した。男は家にはいっていった。彼もその後についていった。近所の人々も、彼の叫び声を聞いてやって来た。間もなく庭は人でいっぱいになった。彼らは花をふみにじり、老人のまわりに頭をつき出して、皆一度に口をきいていた。二、三の人々が老人を地面からもち上げた。クリストフは入口に立止り、壁の方を向き、両手で顔を隠していた。見るのが恐《こわ》かった。しかし見ないでもおれなかった。人々の列がそばを通りかかった時、彼は指の間から、力なくぐったりしてる老人の大きな身体を見た。片方の腕が地面に引きずっていた。頭は運んでる人の膝にくっついて、一足ごとに揺れていた。顔はふくれあがり、泥《どろ》まみれになり、血がにじんで、口を開き、恐ろしい眼をしていた。彼はふたたび喚《わめ》きたて、逃げ出した。何かに追っかけられてるかのように、母の家まで一散に駆けていった。恐ろしい叫び声をあげて、台所に飛び込んだ。ルイザは野菜を清めていた。彼は彼女に飛びつき、自棄《やけ》に抱きしめて、助けに来てくれるようにたのんだ。すすり泣きのために顔がひきつって、口もろくにきけなかった。しかし最初の一言で彼女は了解した。顔色を失い、手の物を取り落し、なんとも言わないで、家の外へ駆け出していった。
クリストフは一人残って、戸棚にとりすがっていた。彼はまだ泣きつづけていた。弟どもは遊びに耽っていた。彼にはどういうことが起こったのかはっきりわからなかった。祖父のことを考えてはいなかった。先刻見た恐ろしいありさまのことを考えていた。そしてまた無理やりに、それらのさまをふたたび見せられはすまいか、あの処へ連れもどされはすまいかと、びくびくしていた。
そして、夕方になって、他の子供たちが、家の中であらゆる悪戯《いたずら》をして倦《あ》いてしまい、退屈で腹がすいたと駄々《だだ》をこねだしたころ、果して、ルイザはあわただしくもどって来、子供らの手を取り、祖父の家へ連れて行った。彼女はごく早く歩いた。エルンストとロドルフとは、いつもの癖でぐずぐず言おうとした。しかしルイザは黙ってるようにと言いつけた。その言葉の調子に、彼らは黙ってしまった。本能的に恐怖を感じた。家にはいりかけた時、彼らは泣き出した。まだすっかり夜にはなっていなかった。夕日の名残《なご》りの光が、扉の押ボタンや、鏡や、ほの暗い広間の壁にかかってるヴァイオリンなどに、異様な反映を見せて、家の中を照らしていた。しかし祖父の室には、蝋燭《ろうそく》が一本ともしてあった。その揺めく炎は、消えかかった蒼白《あおじろ》い明るみとぶつかって、室の重々しい薄闇《うすやみ》をいっそう沈鬱《ちんうつ》になしていた。メルキオルが窓のそばにすわって、声をたてて泣いていた。医者が寝台の上に身をかがめていたから、そこに寝てる者の姿は見えなかった。クリストフの胸は張り裂けるばかりに動悸《どうき》していた。ルイザは子供たちを、寝台の足下に跪《ひざまず》かした。クリストフは思い切って覗《のぞ》いてみた。その午後の光景を見た後のこととて、いかにも恐ろしい何かを期待していたので、一目見ると、むしろ心が休まったほどだった。祖父はじっとしていて、眠ってるように思われた。クリストフはちょっと、祖父が回復したのだという気がした。しかしその押しつけられたような息遣いを聞いた時、なおよく眺めて、倒れた傷跡が大きな紫色の痣《あざ》になってる脹《は》れた顔を見た時、そこにいる人は死にかかってるのだとわかった時、彼はふるえだした。そして、祖父の回復を念ずるルイザの祈祷《きとう》をいっしょにくり返しながら、彼は心の底で、もし祖父がなおらないものなら、もう死んでしまっていてくれるようにと祈った。これから起こるべき事柄を怖《お》じ恐れていた。
老人は倒れた瞬間からすでにもはや意識を失っていた。ただ一時、ちょうど自分の容態がわかるだけの意識を回復した――それは痛ましいことだった。牧師が来ていて、彼のために最後の祈祷を誦《しょう》していた。老人は枕の上に助け起こされた。重々しく眼を開いた。その眼ももはや意のままにならないらしかった。騒がしい呼吸をし、訳がわからずに人々の顔や燈火を眺めた。そして突然、口を開いた。名状しがたい恐怖の色が顔付に現われていた。
「それじゃ……」と彼は口ごもった、「それじゃ、わしは死ぬのか!」
その声の恐ろしい調子が、クリストフの心を貫いた。その声はもう永久に彼の記憶から消えないものとなったのである。老人はそれ以上口をきかなかった。幼児のように呻《うめ》いていた。それからふたたび麻痺《まひ》の状態に陥った。しかし呼吸はなおいっそう困難になっていた。彼はぶつぶつ言い、両手を動かし、死の眠りと争ってるようだった。半ば意識を失いながら、一度彼は呼んだ。
「お母さん!」
なんと悲痛な光景ぞ! クリストフのような子供ならいざ知らず、この老人が、臨終の苦しみにおいて自分の母を呼びかけるそのつぶやき――母、そのことを彼は日ごろかつて口にしたこともなかったのである。終焉《しゅうえん》の恐怖の中における窮極のしかも無益なる避難所!……彼は一瞬間落着いたように見えた。なお意識の閃《ひらめ》きを示した。瞳《ひとみ》があてもなく揺いでるように思われるその重い眼が、恐《こわ》さにぞっとしてる子供に出会った。眼は輝いた。老人は微笑《ほほえ》もうと努め、口をきこうと努めた。ルイザはクリストフを抱いて、寝台に近づけた。ジャン・ミシェルは唇を動かした。そしてクリストフの頭をなでようとした。しかしすぐにまた昏迷に陥った。それが最後であった。
人々は子供たちを次の室へ追いやった。しかしあまり用が多くて彼らに構っておれなかった。クリストフは恐さにひかれて、半開きの扉の入口から、老人の悲壮な顔を偸見《ぬすみみ》ていた。枕の上に仰向《あおむけ》に投げ出されて、首のまわりをしめつけてくる獰猛《どうもう》な圧縮に息をつまらし
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