た。途切れた話の続きをやりたくてたまらなかった。しかしそれはうまくゆかなかった。とはいえ事情は好都合だった。ケリッヒ夫人といっしょに散歩に出かけた。勝手に話のできる機会はいくらもあった。しかしクリストフは口をきくことができなかった。それが非常につらかったので、途中ではできるだけミンナから離れていた。ミンナはその失礼に気づかないふりをしていた。しかし癪《しゃく》にさわって、明らさまに見せつけてやった。クリストフがついに思いきって何か言おうとした時、彼女は冷かな様子でそれを聞いた。彼はその文句をしまいまで言い切るのもやっとのことだった。散歩は終りかけていた。時間は過ぎていった。そして彼はその機を利用できなかったのが残念でたまらなかった。
 一週間過ぎた。彼らは相互の感情を考え違いしてると思った。先日の夕方のことは、夢ではなかつたかと疑った。ミンナはクリストフに恨みを含んでいた。クリストフはミンナ一人に出会うのを怖《おそ》れていた。彼らはいつになくますます冷淡になっていた。
 ついにある日が来た。――午前中と午後少し雨が降った。彼らは家の中に閉じこもり、言葉もかわさず、書物を読んだり、欠伸《あくび》をしたり、窓から外を眺めたりした。退屈でくさくさしていた。四時ごろ空が晴れた。二人は庭に飛び出した。高壇《テラース》の手摺《てすり》に肱《ひじ》をついて、河の方へ低くなってる芝生の斜面を眼の下に眺めた。地面は湯気をたてて、生温《なまあたたか》い水蒸気が日向《ひなた》に立ち上っていた。雨の雫《しずく》が草の上に閃《ひらめ》いていた。濡れた地面の匂いと花の香りとが、いっしょに交っていた。彼らのまわりには、金色の蜂《はち》が羽音をたてて飛んでいた。彼らは相並んだまま、たがいに見向きもしなかった。思い切って沈黙を破ることができなかった。一匹の蜂が、雨に重くなってる一房の藤《ふじ》の花にうっかりとまって、ぱっと水を浴びた。二人は一度に笑いだした。するとすぐに、もうたがいに気を悪くしてるのでないことを感じ、仲のいい友だちであることを感じた。けれどもやはり顔を見合わせなかった。
 突然、振向きもしないで、彼女は彼の手をとり、そして言った。
「いらっしゃいよ。」
 彼女は彼を引っぱりながら、小さな木立の迷宮の方へ駆けていった。両側に黄楊《つげ》の植わってる小径《こみち》が縦横に通じていて、林のまんなかが小高くなっていた。二人はその坂を上っていった。湿った地面に足が滑《すべ》った。雨に濡れた木の枝が二人の頭の上で揺れた。頂上に着きかけると、彼女は立止まって息をついた。
「待ってちょうだい……待ってちょうだい……。」と彼女は息切れを鎮《しず》めようとしながら低く言った。
 彼は彼女を眺めた。彼女は他の方を向いていた。半ば口を開いて息をはずませながら、微笑《ほほえ》んでいた。その手はクリストフの手の中にひきつっていた。彼らは握りしめた掌《てのひら》とうち震う指とに、血が脈打つのを感じた。あたりはひっそりとしていた。木々の金緑の若芽が、日の光に顫《ふる》えていた。小さな雫《しずく》が、銀の音色をして木の葉から滴《したた》っていた。そして空には、燕《つばめ》の鋭い声が過ぎていった。
 彼女は彼の方へふり向いた。一|閃《せん》の光だった。彼女は彼の首に飛びつき、彼は彼女の腕の中に身を投じた。
「ミンナ、ミンナ、恋しい……!」
「あなたを愛しててよ、クリストフ、愛しててよ!」
 彼らは濡れた木の腰掛にすわった。恋しさに、甘く深いやたらな恋しさに、しみ通っていた。他のことはすべて消えてしまった。もはや利己心もなく、見栄《みえ》もなく、下心もなかった。魂のあらゆる曇りは、その愛の息吹《いぶ》きに吹き払われてしまった。「愛する、愛する、」――笑みを含み涙に濡れた彼らの眼がそう言っていた。この冷淡な婀娜《あだ》な少女、この傲慢《ごうまん》な少年、彼らはたがいに身をささげ苦しみ、たがいのために死にたいという、欲求に駆られていた。彼らはもはや自分がわからなかった。もはや平素の自分自身ではなかった。すべてが変わっていた。彼らの心も顔立も眼も、痛切な温情と愛情とに輝いていた。純潔の、無我の、絶対的献身の、瞬間であって、もはや生涯にふたたび来ることのない瞬間であった。
 夢中のささやきの後、永久にたがいに相手のものであるという熱烈な誓いの後、とりとめもない歓喜の言葉とくちづけの後、彼らはもう遅くなってるのに気づいた。そして手をとり合って駆けもどりながら、狭い小径《こみち》につまずき倒れるのも恐れず、木にぶっつかるのもかまわず、何にも感ぜず、ただ喜びの情に眼眩《めくら》み心酔っていた。
 彼女と別れてから、彼は家に帰らなかった。帰っても眠れなかったろう。彼は町の外に出て、野を横切って歩いた。夜中を当《あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。梟《ふくろう》が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄《ぶどう》畑の中にある丘に上った。町の小さな灯《ひ》が平野の中に震えていて、星が暗い空に震えていた。彼は路傍の土壁に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉《うれ》しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、仕合わせでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来るもの悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《かんすい》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚《さま》すと、ほのかな曙《あけぼの》になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。

 朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。
 しかし二人には、えもいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々のさなかに、霧を通して日の光がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだった。晩に薄暗い階段のところでかわす「さよなら」、薄暗がりでたがいに求め合いたがいに察し合う眼付、触れ合う手の戦《おのの》き、声の震え、すべてつまらないことばかりだった。しかし夜になって、時計の鳴る音にも眼を覚ますような軽い眠りに入っている時、小川のささやきのように「私は愛されてる」と心が歌っている時、二人にはそれらの思い出が浮かんでくるのであった。
 二人は事物の魅力を見出した。春は無上の楽しさをもって微笑《ほほえ》んでいた。彼らが今まで知らなかったほどの、輝きが空にはあり、やさしみが空気にはこもっていた。町じゅうが、赤い屋根も、白い壁も、凸凹《でこぼこ》の舗石も、親しい魅力を帯びて、クリストフはそれに心を動かされた。夜、人の寝静まっている時、ミンナは寝床から起き上がり、半ば眠り心地で心を躍《おど》らせながら、長く窓にもたれていた。午後、彼がいない時には、彼女はブランコに腰をかけ、書物を膝に置き、眼を半ば閉じ、快い懶《ものう》さにうっとりとし、身も心も春の空気中に漂うような心地がして、夢想に耽っていた。今や彼女はいく時間もピアノについていて、他人の目にはたまらないほどの気長さで和音や楽節をくり返してひき、それに感動して顔色を失い冷たくなっていた。シューマンの音楽を聞くと涙を流した。万人にたいする憐れみと親切とで心がいっぱいになってる気がしていた。そして彼もまた彼女と同じ心地であった。二人は貧しい者に出会うと、ひそかに施与をして、同情にたえない眼付をたがいにかわした。親切にしてやるのが嬉しかった。
 ほんとうをいえば、彼らは間歇《かんけつ》的にしか親切ではなかったのである。ミンナは、母の子供のおりから家で働いている老婢《ろうひ》フリーダの献身的な卑しい生涯が、いかにあわれなものであるか、突然気がついた。そして彼女のところへ駆けて行って首に抱きついた。台所でシャツを繕《つくろ》っていた老婢は非常にびっくりした。それでもミンナはやはり、二、三時間もたてば、呼鈴を鳴らしたのにフリーダがすぐにやって来なかったからと言って、荒々しい言葉を使った。またクリストフの方も、あらゆる人間にたいする愛情で胸をせつなくし、一匹の虫をも踏み潰《つぶ》さないようにとよけて通っていたのに、自家の者たちにたいしては冷淡きわまっていた。奇怪な反動ではあるが、あらゆる他人にたいして情け深くなればなるほど、それだけ家の者にたいしてはいっそう冷酷になっていった。家の者のことはろくに考えもせず、無作法な口のきき方をし、厭な眼付で眺めていた。二人にとっては、その親切はあまりに満ち満ちた愛情の結果にすぎなかった。その愛情は発作的にあふれ出して、だれでもぶっつかった者に利を与えるのだった。そしてその発作を除いては、二人は平素よりもいっそう利己的になっていた。二人の頭はただ一つの考えに満されていて、すべてがそこに帰着するからであった。
 この少女の面影は、クリストフの生活のうちに、いかに大なる場所を占めていたことだろう! 庭に彼女の姿を捜し求めて、小さな白い長衣を遠くに見出す時――劇場で、まだ空いている彼女ら二人の席から数歩のところにすわっていて、桟敷《きじき》の扉が開くのを聞き、よく知りぬいているあでやかな声を耳にする時――まったく無関係な話の中に、ふとケリッヒというなつかしい名前が出てくる時、彼はいかに感動したことであろう! 彼は蒼《あお》くなりまた赤くなった。しばらくの間は何にも聞こえも見えもしなかった。その後ではすぐに、血の激流が全身に湧き上がり、言い知れぬ力が躍《おど》りたってくるのであった。
 この無邪気な肉感的なドイツの少女は、不思議な遊戯を心得ていた。彼女は麦粉を敷いた上に指輪をのせた。二人は代わる代わる、鼻に粉がつかないようにして、その指輪を歯でくわえ上げるのだった。あるいは、彼女はビスケットに糸を通した。そして二人は糸の両端を口にくわえ、糸を食べながら、できるだけ早くビスケットに噛みつくのだった。二人の顔は近寄り、息は交じり、唇は触れ合った。二人はわざとらしく笑っていた。手は冷たくなっていた。クリストフは、向うに噛みついてやり、痛い目に会わしてやりたかった。が突然彼は後ろに飛び退《さが》った。彼女は強《し》いて笑いつづけた。二人はたがいに顔をそむけ、なんでもないふうを装っていたが、でもそっと眼を見合っていた。
 それらの怪しい遊びは、二人にとって不安な魅力をもっていた。クリストフはそれを恐れて、ケリッヒ夫人かだれかがいっしょにいる窮屈な集まりの方を好んだ。どんな邪魔な人がいようと、二人の恋の心の対話を妨げることはできなかった。拘束はかえってその対話を、いっそう熱烈なものとしいっそう楽しいものとした。そういう時には、すべてが二人の間では限りなく価値あるものと
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