と親しく話し合う習慣を失っていた。もう長年の間、彼は自分の考えを心に秘めていた。そして彼女は生活の物質的な心配に没頭しすぎていて、彼の心中を推察しようとつとめる暇《ひま》がなかった。で今彼を助けてやろうと思っても、どうしていいかわからなかった。思い悩んでただ彼の周囲を彷徨《さまよ》った。彼の慰めとなるような言葉を見出そうと願いながら、彼をいらだたせることを恐れて口もきけなかった。そんなに用心しながらも、彼女のあらゆる素振は、そばにいることさえも、彼のいらだちの種となった。なぜなら、彼女はあまり気がきいていなかったし、彼はあまり寛大でなかったから。それでも彼は彼女を愛していた、彼らはたがいに愛し合っていた。しかしながら、たがいに愛し慈《いつく》しんでる人々の間をも遠ざけるには、ごく些細《ささい》なことで足りる。激しすぎる口のきき方、へまな身ぶり、ただちょっとしかめる眼や鼻、一種の食べ方や歩き方や笑い方、いちいちそれと言えないくらいの肉体的不快事……。それはなんでもないことだと考えられている。けれども大したことである。ただそれだけのために往々、ごく親しくしてる母と子とが、兄と弟とが、友と友
前へ 次へ
全221ページ中214ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング