えん》じなかったとはいえ、その晩、晴れやかな顔付と輝かしい考えしか存すべからざる時に、氏がそういう厭なことに思いを走《は》せたのは、彼の気に入らなかった。けれども彼の印象は雑然たるものであった。極度の喜びと、祖父の杯で飲んだわずかなシャンパンのために、その印象はすぐに追い払われてしまった。
帰る途中、祖父は独語《ひとりごと》をやめなかった。ハスレルから受けた賛辞に有頂天になっていた。ハスレルこそは一世紀に一人くらいしか見られないほどの天才だと叫んでいた。クリストフは黙り込んで、なつかしい陶酔の情を心に秘めていた。彼[#「彼」に傍点]が自分を接吻してくれた。彼[#「彼」に傍点]が自分を両腕に抱いてくれた、彼[#「彼」に傍点]はなんといういい人だろう! 彼[#「彼」に傍点]はなんという偉《えら》い人だろう!
「ああ!」と彼は小さな寝床の中で、ひしと枕をかき抱きながら考えた、「私は死んでもいい、あの人のためになら死んでもいい!」
一夜、その小都会の空を過ぎていった輝いた流星は、クリストフの精神に決定的な影響を与えたのであった。幼年時代の間、それは生きた手本となって、その上に彼は眼を据え
前へ
次へ
全221ページ中165ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング