まど》の中で鳴いている。祖父の話が、英雄の面影が、楽しい夜の中に浮んでくる。……彼らのように英雄になる!……そうだ、自分は英雄になるだろう……いやもう英雄になっている……。ああ、生きてることはなんといいことだろう!……

 いかにおびただしい力と喜びと誇りとが、この小さな存在のうちにあることぞ! いかにみちあふれた精力ぞ! 彼の身体と精神とは、息も止まるばかりに回転する輪舞のままに、常に動いている。一匹の小さな火蛇《かじゃ》のように、彼は昼も夜も炎の中に踊っている。何物にも疲らされず、あらゆる物から養われる、一の熱誠。物狂おしい夢、ほとばしる泉、無尽蔵な希望の宝、笑、歌、不断の陶酔。人生はまだ彼を捉《とら》えない。彼はいつも人生から脱して、無限のうちに泳いでいる。いかに幸福であることぞ! 幸福であるようにできてるのだ! 彼のうちには、幸福を信ぜないものは何もなく、その小さな熱中した全力を尽して幸福を目指さないものは、何もない……。
 人生はやがて、彼を理性に従わしむることにみずから任ずるであろう。
[#改ページ]

     二

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曙《あけぼの》の前に小暗《おぐら》き時は
逃げ去りて、遠方《おちかた》に、
海のおののき見えたりき……
     ――神曲、煉獄の巻、第一章――
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 クラフト家はアンヴェルスの出であった。ところが老ジャン・ミシェルは、かつて若気の過ちと激しい喧嘩《けんか》とのすえ、その土地を去ってしまった。彼はたびたび喧嘩をしたことがあった――ひどく喧嘩好きだったから――そしてこの最後の喧嘩がいやな結果に終ったのである。で彼は、およそ五十年ばかり前に、今の大公領の小都会に移住してきた。なだらかな丘の斜面につみ重なってる頂のとがった赤い屋根と木影深い庭園とは、父なるライン[#「父なるライン」に傍点]の薄緑をした河の眼に映っていた。すぐれた音楽家である彼は、だれも皆音楽家ばかりであるその地方に、すぐにもてはやされるようになった。そして四十歳を過ぎてから、クララ・ザルトリウスと結婚して、その地に根をすえてしまった。彼女は大公に仕えてる楽長の娘であって、彼はその楽長の職を譲り受けた。クララは沈着なドイツ婦人で、料理に音楽という二つの熱情をもっていた。そして夫にたいしては、父親にたいするのにも劣らない深い尊敬を
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