きな都会、逆巻く海、夢のような景色、愛する人々の顔なども、子供のおりのかかる散歩や、または、他になすこともなくて小さな唇《くちびる》を窓ガラスにつけ、そこにできる息の曇り越しに、毎日透し見た庭の片隅、そういうものほど正確には心の中に刻み込まれない……。

 もはや、閉め切った家の中の晩である。家……あらゆる恐ろしいもの、影、夜、恐怖、見知らぬもの、などにたいする隠れ場所。いかなる敵もその敷居をまたぐことはできないだろう……。火が燃えている。黄色い鵞鳥《がちょう》の肉が、串《くし》にささってゆっくり回っている。脂肪と歯ごたえのある肉との甘い匂いが、室の中にたちこめている。飲食の喜び、類《たぐ》いない幸福、敬虔《けいけん》な感激、喜悦の小躍《こおど》り! 快い温かさと、その日の疲れと、親しい声の響きとに、身体はうっとりと筋がゆるんでくる。消化は身体を恍惚《こうこつ》のうちに溺《おぼ》らして、そこでは物の形も、影も、ランプの笠《かさ》も、真黒な暖炉の中で火の粉を散らして踊ってる炎の舌も、皆|歓《よろこ》ばしい不可思議な様子になる。クリストフは皿《さら》に頬《ほお》を寄せて、その幸福をいっそうよく味わおうとする……。
 彼は温かい寝床の中にいる。どうして彼はそこまでやって来たのだろう? 快い疲労に彼はぐったりしている。室の中の人声の響きと、一日のありさまとが、頭の中に立ち乱れる。父親はヴァイオリンを取上げる。鋭い美しい音が夜のうちに訴えるように響く。けれども最上の幸福は、母親が自分のそばにやって来る時、うとうとしてる自分の手をとってくれる時、自分の方に身をかがめて、求めるとおりに、意味もない言葉を連ねた古い唄《うた》を小声で歌ってくれる時である。父親はその音楽を馬鹿げたものだと言うけれど、クリストフはいくら聞いても聞きあきない。彼は息をこらす。笑ったり泣いたりしたくなる。心は酔わされる。自分がどこにいるかも分らない。やさしい感情で胸がいっぱいになる。彼は小さな両腕を母親の首にまきつけて、力の限り抱きしめる。彼女は笑いながら言う。
「まあ、私を絞め殺すつもりなのかい。」
 彼はいっそう強く抱きしめる。いかほど母親を愛してることだろう! いかほどすべてを愛してることだろう! あらゆる人を、あらゆる物を! すべてがよい、すべてが美しい……。彼は眠ってゆく。蟋蟀《こおろぎ》が竈《か
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