った、なぜなら、彼は彼らのうちに存在していたから、また彼らは彼のうちに甦《よみがえ》ってきているから。幾世紀もの思い出が、今鐘の奏する音楽の中に震えている。数多《あまた》の悲しみと数多の歓び!――そして、室の奥からでも、その鐘の音を聞いていると、軽い空気の中を流れゆく美しい音波や、自由な鳥や、風の温かい息吹《いぶ》きなどが、すぐ眼の前を通りすぎるがように思われる。青い空の一部が窓に微笑《ほほえ》みかけている。一条の日の光が、窓掛から滑り込んで寝床の上に落ちている。子供が見慣れた小さな世界、毎朝眼を覚しながら寝床から眺めるすべてのもの、自分のものにしようとして、多くの努力を払って、それと知り始め名づけ始めたすべてのもの――彼の王国が輝き出す。皆が食事をするテーブル、彼が隠れて遊ぶ戸棚《とだな》、彼がはい回る菱《ひし》形の床石《ゆかいし》、おかしな話や恐ろしい話を彼にしてくれる種々な皺《しわ》のある壁紙、彼だけにしか分らない片言《かたこと》をしゃべる掛時計。なんとたくさんのものが室の中にあることだろう! 彼はそれらのすべてを知りつくしてはいない。毎日彼は、自分に属してるその宇宙に探険に出かける――すべてが彼のものである。――一つとしてつまらないものはない。一人の人間も一匹の蠅《はえ》も、すべてが同じ価値をもっている。猫《ねこ》、火、テーブル、一筋の光の中に舞い立ってる細かな埃《ほこり》、皆同じ価に生きている。室は一つの国である。一日は一つの生涯である。そういう広漠たる中において、どうしておのれを認められよう? 世界はかくも大きい! 自分の姿が見分けられない。そして周囲にたえず渦《うず》巻いている。それらの顔、身振り、運動、音響……。子供は疲れてくる。眼は閉じて、彼は眠ってゆく。快い眠り、深い眠り、身を置くに好ましいところなら、母親の膝《ひざ》の上でもテーブルの下でも、どこであろうとまたいつであろうと、彼は突然それにとらえられる……。あたりは快い、自分自身も快い……。
それら最初の日々《にちにち》は、大きな雲の移りゆく影を宿して風に吹かるる麦畑のように、子供の頭の中に騒々しい音をたてる……。
影は逃げ去って、太陽がのぼってくる。クリストフは一日の迷宮の中に、自分の道を見出し始める。
朝……。両親は眠っている。彼は自分の小さな寝床に仰向《あおむけ》に寝ている。彼は天
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