しまった。そしてルイザは子供のそばで眠りに入った。
 そういう間、ジャン・ミシェル老人は、雨の中に、霧に髯《ひげ》を濡らして、家の前で待っていた。惨《みじ》めな息子の帰宅を待っていた。頭がたえず働いて、泥酔《でいすい》から起こるいろんな悲しい出来事をあれこれと想像してやまなかったのである。実際そういう事が起ころうとは信じなかったけれども、もし息子がもどって来るのを見ないで帰ったら、その晩一睡もできないかもしれなかった。鐘の音を聞いて彼の心は非常に悲しくなっていた。空《くう》に終った昔の希望を思い起こしたからである。こんな時刻に、この往来の中で、自分は今何をしているか、それを彼は心に浮べていた。そして恥ずかしさのあまり涙を流していた。

 月日の広漠たる波は徐々に展開してゆく。限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変わることなく去来する。週と月とは流れ去ってはまた始まる。そして日々の連続は同じ一日に似ている。
 極《きわ》みなき黙々たる日、それを印《しるし》づけるものは、影と光との相等しい律動、また揺籃《ようらん》の底に夢みる遅鈍な存在の生命の律動――あるいは悲しいあるいは楽しいやむにやまれぬその欲望、それは昼と夜とにもたらされながら、かえってみずから昼と夜とを招き出すかと思われるまでに、規則正しく波動する。
 生命の振子は重々しく動いている。全存在はそのゆるやかな波動のうちにのみ込まれる。その他は皆夢にすぎない、うごめく奇形な夢の断片、偶然に舞い立つ原子の埃《ほこり》、人を笑わせあるいは恐れさせつつ過ぎてゆく眩《めまぐる》しい旋風にすぎない。喧騒《けんそう》、揺らめく影、奇怪な形、苦悩、恐怖、哄笑《こうしょう》、夢、種々の夢……。――すべて皆夢にすぎない……。――そしてその混沌《こんとん》の中には、彼に微笑《ほほえ》みかくる親しい眼の光、母の身体から、乳に脹《は》れた乳房から、彼の身体のうちに伝わりわたる喜悦の波、彼のうちにあって自然に積り太ってゆく力、その小さな子供の体内に閉じこめられて轟《とどろ》き出す湧きたった大洋。かかる幼児の内部を読み分けうる者は、影の中に埋もれたる幾多の世界を、しだいに形を具えゆく幾多の星雲を、形成中の全宇宙を……そこに見出すであろう。幼児の存在には限界がない。彼は存在するすべてのものである……。

 月は過ぎてゆく……。記憶の島
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