声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
「なぜ?」
 老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。
 彼女は答えなかった。
 彼は言った。
「お前は恐《こわ》がっているね。彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
「ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!」
 老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
「よしよし。」
 彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。彼は一段ごとに立止った。息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危険な場合を想像してみた。
 寝床の中では、母親のそばで、子供がまた動きだしていた。未知の苦悩が、おのれの存在の奥底から湧《わ》き上がってきていた。彼は母親に身を堅く押しつけた。身体をねじまげ、拳《こぶし》を握りしめ、眉《まゆ》をひそめた。苦悩は力強く平然と、大きくなるばかりであった。その苦悩がどういうものであるか、またどこまで募ってゆくものか、彼には分らなかった。ただ非常に広大なものであり、決して終ることのないものであるように思われた。そして彼は悲しげに声をたてて泣き出した。母親はやさしい手で彼をなでてやった。苦悩はもうずっと和らいでいた。しかし彼は泣きつづけていた。自分の近くに、自分のうちに、その苦悩がいつもあるように感じていたからである。――大人《おとな》が苦しむ時には、その苦しみの出処を知れば、それを減ずることができる。彼は思想の力によって、その苦しみを身体の一部分に封じ込める。そしてその部分はやがて回復されることもできれば、必要に応じては切り離されることもできる。彼はその部分の範囲を定め、自分自身から隔離しておく。しかし子供の方は、そういうごまかしの手段をもたない。彼と苦しみと
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