」は一九一一年に出た。そしてこの三巻は、「ジャン・クリストフ」の基調となるものであった。強烈な意力をもってあらゆる苦痛をも力強きものたらしめつつ、最後まで戦いぬいたベートーヴェン、あまりに弱い霊と肉とのために不安焦燥混乱のうちに投ぜられつつ、内に燃え上がる過剰な力に苦しみつづけたミケルアンゼロ、無慈悲なるまでに明るい視力によって照らし出さるる現実の醜い姿に悩みつつ、わき目もふらずに真理と愛とを追求してやまなかったトルストイ、この三人の天才の力が、ジャン・クリストフの中に投げ込まれている。
かかる力に駆られて邁進《まいしん》するジャン・クリストフは、ついにいかなる境地にたどりつくであろうか。フランス国外に逃亡した彼は、スイスにおいて、自分の恩人の妻と不思議な恋におちいった。そして情欲の動乱と罪悪の恥辱とに医《いや》しがたい傷を受けた彼は、敗残の身をジュラの山奥にひそめた。愛と憎悪との矛盾|相剋《そうこく》にさいなまれた彼は、苦痛の底から謙虚な心をもって周囲を見回した。すると愛と憎との荒れ狂う世界が眼前に展開してきた。獣類も草木も野も山も、宇宙のいっさいが争闘し合っていた。その悲壮な光景が、いかなる価においても生きんとの欲望を、彼の心のうちに復活せしめた。暗夜森林の奥において、彼はおのれのうちにある神の声を聞いた。それは戦いの神であり、また力強い生命それ自身であった。かくてふたたび甦《よみがえ》った彼の前には、すでに新らしい時代が開けていた。しかもそれは戦《いくさ》の時代であった。各民族が内部の力の充実によって、古くから沈滞している血潮を沸騰せしめながら、おのれの生を拡大せんとする復興の時代であった。若きフランス、若きドイツ、若きイタリー、皆そうであった。火は燃え上がり始めんとしていた。陰鬱《いんうつ》な灰色のうちに沈んでいたヨーロッパが、今や火の飼食《えじき》となろうとしていた。国民的大戦争はただ偶然の口火を待つのみであった。ジャン・クリストフは、そういう国家的利己主義の前に戦《おのの》いた。彼にいわすれば、ドイツとフランスとは、たがいに相補って欧州文明の双翼となるべきものであった。両者を距《へだ》つる国境は撤せらるべきものであった。すでに一つの国境が撤せらるれば、他のあらゆる国境も撤せられなければならない。そして後人類は初めて平和のうちに相愛するであろう。しかしながら、救済は戦の後にしか来ない。なぜなら、新らしい時代の神は、肉と血と生命とを具えた戦いの神であるから。そして、戦によって得られた平和は、やがて次の戦の序曲となるであろう。平和と戦とが一つに綯《な》われて、そこに輝かしい生命の交響楽が作られるであろう。そういうところまでたどりついたジャン・クリストフは、すでに新らしき日を肩に荷《にな》っていた。新しき日の戦に戦うものは、他のジャン・クリストフ、その戦のために生まれ変わってくるジャン・クリストフ、でなければならなかった。争闘と苦悶とに鍛えられた生命の響きと、永遠なる芸術の香りとのなかに、ジャン・クリストフがふたたび甦《よみがえ》るために死にゆく時、昼と夜、愛と憎悪、その力強き二つの翼ある神を讃《たと》うる歌が響いてきた。
「ジャン・クリストフ」十巻を書いた時、作者ロマン・ローランの眼には、最近の欧州大戦役の修羅場《しゅらじょう》が映じていたかどうかを、私は知らない。しかし彼の眼には、新らしい生命の力に目覚めた世界が映じていたであろう。そこにおいては、愛と憎悪と、戦と平和と、昼と夜と、生と死とが、たがいに交錯して永遠に波動している。そこにうち立てられた神は、人の魂を窮屈なる信条のうちに閉じ込むるものではなく、自由に濶歩《かっぽ》するの力を人の魂に与うるものである。それでは人類はついに、いかなる境地にたどりつかんとするのであろうか? それは純真なる求道者たるロマン・ローランにとって、ジャン・クリストフにとって、問題ではなかった。彼は人類の道程を無限の距離にまで延長した。
一九二〇年八月
[#地から2字上げ]豊島与志雄
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付記――ロマン・ローランは「ジャン・クリストフ」を中心にする著作によってノーベル文学賞を授与されたが、その後、「魅せられたる魂」の大作をはじめ幾多の著作があり、一九四四年末に病歿した。
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底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2008年6月10日修正
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