がら、救済は戦の後にしか来ない。なぜなら、新らしい時代の神は、肉と血と生命とを具えた戦いの神であるから。そして、戦によって得られた平和は、やがて次の戦の序曲となるであろう。平和と戦とが一つに綯《な》われて、そこに輝かしい生命の交響楽が作られるであろう。そういうところまでたどりついたジャン・クリストフは、すでに新らしき日を肩に荷《にな》っていた。新しき日の戦に戦うものは、他のジャン・クリストフ、その戦のために生まれ変わってくるジャン・クリストフ、でなければならなかった。争闘と苦悶とに鍛えられた生命の響きと、永遠なる芸術の香りとのなかに、ジャン・クリストフがふたたび甦《よみがえ》るために死にゆく時、昼と夜、愛と憎悪、その力強き二つの翼ある神を讃《たと》うる歌が響いてきた。
「ジャン・クリストフ」十巻を書いた時、作者ロマン・ローランの眼には、最近の欧州大戦役の修羅場《しゅらじょう》が映じていたかどうかを、私は知らない。しかし彼の眼には、新らしい生命の力に目覚めた世界が映じていたであろう。そこにおいては、愛と憎悪と、戦と平和と、昼と夜と、生と死とが、たがいに交錯して永遠に波動している。そこにうち立てられた神は、人の魂を窮屈なる信条のうちに閉じ込むるものではなく、自由に濶歩《かっぽ》するの力を人の魂に与うるものである。それでは人類はついに、いかなる境地にたどりつかんとするのであろうか? それは純真なる求道者たるロマン・ローランにとって、ジャン・クリストフにとって、問題ではなかった。彼は人類の道程を無限の距離にまで延長した。
   一九二〇年八月
[#地から2字上げ]豊島与志雄

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付記――ロマン・ローランは「ジャン・クリストフ」を中心にする著作によってノーベル文学賞を授与されたが、その後、「魅せられたる魂」の大作をはじめ幾多の著作があり、一九四四年末に病歿した。
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底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2008年6月10日修正
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