いつのまにか、家をぬけ出して其処に行く。昼も夜も目が離せない。
夜中の冷気にさわってか、お上さんは感冒にかかり、気管支から肺尖をいため、高熱が続いた。それでもやはり、家人のすきをねらっては、家をぬけ出すことをやめない。仕方なしに、座敷牢みたいなものを拵え、出入口に丈夫な格子戸をはめた。その中でお上さんは、一ヶ月ばかり病気を養っていたが、或る夜、姿を消してしまった。格子戸には外から錠がかかっており、他に逃げ出せる隙間はない。然しお上さんはいないのだ。全く奇怪なことだった。――そしてお上さんの身体は、稲荷様のあの祈祷所の前に蹲ったまま、冷たくなっていたのである。
その話は、子に対する母の愛という色に塗られて、伝えられていた。
だが、違う、私に云わすれば違う。たとえ亡児に対する妄執から起ったものにせよ、亡児の幻影に惹かされたものにせよ、母の温かい愛というものとは、違うのだ。稲荷様の祈祷所の前に蹲った気持は、誘因は何であろうと、そんなものではない。殊に、座敷牢の格子の中に坐ってる気持は、そんなものではあるまい。
私は奇怪な経験をもっている。ともすると今でもそれが私を誘惑する。
動物園で、一匹のオランウータンを、私は一時間ばかりじっと眺めていたことがある。
類人猿という言葉は、へんな響きをもっている。更に、オランウータンという名前は、異様な響きを持っている。そしてその実体――艶のないくすんだ薄い毛並、烱々たる眼光、つき出た口、長い手足、その全体が、人間に似ているばかりでなく、人間の最も下等な何物かを象徴しているのだ。
彼は高い台座の上に、敷物をしいて坐っていた。時々敷物を裏返ししては、蚤か虱かを探しているようだった。それから、のっそりとはい出してきて、鉄格子に四肢でつかまり、見物人たちの方を、没表情な顔付で、ひとわたり見廻して、またのっそりと、座席に戻っていった。ただそれだけのことである。
それが、どうして私を一時間も引止めたのか。
私は知りたかったのだ。
夜遅く、家人の寝静まった頃、私は机から向き返って、室の中を見廻した。そして、両手をかるく握り、その指の甲の方を畳につき、尻をもちあげ、足をたてて、のっそりと匐いだした。
指の甲が痛い。だが、もしそこに鉄格子があったならば、私はそれにつかまり、尻を後に引いて両足をもかけ、私は足指がよく利くのだ、足指で
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