と酔歩をはこんでくると、祈祷所の中から、何やら呟く声が聞える。立止って耳を澄ませば、たしかに祈念をこらしてる声だ。吐く息につれて高まり、引く息につれて低まり、文句はさらに分らないが、調子をとって断続する声の響きだ。
 私はそこに佇んで、耳を、いや心を、傾けて聞いていた。訴えるでもない。怨むでもない、あやしいおののきが、私の身体につたわってくる……。
 人の祈念は、たとえ白昼でも、殊に深夜では、わきから窺うものではない。或る忌わしい惑わしを受ける。私もその惑わしを受けたのであろうか。ポンポンと軽い拍手の音がして、黒い人影が立現れ、体格は頑丈で壮年らしいが、少し腰をまげた男が、草履ばきですたすたと、鳥居の列の中を、見返りもしないで、立去っていった後、私はそのあとにはいりこんで、狐格子の前にうずくまったのである。
 土とも蝋とも香ともつかない、ごくかすかな匂いが、鼻をついてき、身体をつつむ。狐格子の中の暗がりには、鏡の面に、かすかな光があやしく漂っている。そして私は、先刻の男と丁度同じ場所に、同じ姿勢で、屈んでいるのだ。ただ私には祈りの文句がない。母の病気平癒も、私の恋愛の安泰も、研学の進歩も、其他凡て、その時の私の心に添わない。しいて求むれば、臨兵闘者皆陣裂在前……九字を切るくらいのものだ。だがその気持は、護身のためではなく、積極的な呪咀の秘法だ。私はその形を得て、その心をも得たように思う。

 この稲荷様のことについて、私はふと、へんな話をきいたのである。
 母が気分がよくて、床の上に坐っていた或る日、見舞に来た近くの奥さんの、とりとめもない世間話のなかの一つ……それを私は、隣室にねころんで、雑誌の頁をめくりながら、聞くともなしに耳に入れた。
 或る店屋のお上さんが、その稲荷様を大変信仰していたらしい。二つになる子供が病気した時には、殊に屡々お詣りするようになった。結婚後五六年たって出来た一人娘で、それが消化不良になったのである。娘は半年ばかりの後に亡くなった。
 お上さんはまるで呆けたように、ぼんやり日を過した。その娘の四十九日の忌が明けた頃から、時々家をぬけ出すようになった。家をぬけ出して、稲荷様のあの祈祷所のところに、じっと蹲っているのである。一晩中、そして夜が明けてからも、なおそこに蹲っている。家人が来て連れ戻そうとすると、すなおに云うことをきく。けれどもまた
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