りの女が握るは、よきことに非《あら》ず。そは大文明の附属監獄にとりて恥ずべきことなり。
[#ここで字下げ終わり]

 ジャヴェルは一つの句読点をも略さず、紙に確かなペンの音を立てながら、最も冷静正確な手跡で、右の各行をしたためた。そして最後の行の次に署名をした。

[#地から4字上げ]一等警視  ジャヴェル

[#ここから6字下げ]
シャートレー広場の分署において
一八三二年六月七日午前一時頃
[#ここで字下げ終わり]

 ジャヴェルは紙の上の新しいインキをかわかし、紙を手紙のように折り、それに封をし、裏に「制度に関する覚え書き」としたため、それをテーブルの上に残し置き、そして衛舎から出て行った。鉄格子《てつごうし》のはまってるガラス戸は彼の背後に閉ざされた。
 彼はシャートレー広場を再び斜めに横ぎり、川岸通りにいで、ほとんど自動機械のような正確さで、十五、六分前に去った同じ場所へ戻ってきた。彼はそこに肱《ひじ》をつき、胸壁の同じ石の上に同じ態度で身を休めた。前の時から身を動かしたとは思えないほどだった。
 一点のすき間もない闇《やみ》だった。ま夜中に引き続く墳墓のような時間だった。雲の天井が星を隠していた。空には凄惨《せいさん》な気が深くよどんでいた。シテ島の人家にももう一点の光も見えなかった。通りかかる者もなかった。街路も川岸通りも、見える限り寂然《せきぜん》としていた。ノートル・ダームの堂宇と裁判所の塔とが、暗夜のひな形のように見えていた。一つの街灯の光が川岸縁を赤く染めていた。多くの橋の姿は、靄《もや》の中に相重なってぼかされていた。川の水は雨のために増していた。
 読者の記憶するとおり、ジャヴェルがよりかかってるその場所は、ちょうどセーヌ川の急流の上であって、無限の螺旋《らせん》のように解けてはまた結ばるる恐るべき水の渦巻《うずま》きを眼下にしていた。
 ジャヴェルは頭をかがめてながめ入った。すべてはまっくらで、何物も見分けられなかった。泡立《あわだ》つ激流の音は聞こえていたが、川の面は見えなかった。おりおり、目が眩《くら》むばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて茫漠《ぼうばく》たるうねりをなした。水には一種の力があって、最も深い闇夜のうちにも、どこからともなく光を取ってきてそれを蛇《へび》の形になすものである。が、再びその明るみも消え、すべてはまたおぼろになった。広大無限なるものがそこに口を開いてるかと思われた。下にあるものは水ではなく、深淵《しんえん》であった。川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの懸崖《けんがい》のようだった。
 何物も見えなかったが、水の敵意ある冷たさとぬれた石の無味なにおいとは感ぜられた。荒々しい息吹《いぶき》がその淵《ふち》から立ち上っていた。目には見えないがそれと知らるる増水、波の悲壮なささやき、橋弧の気味悪い大きさ、頭に浮かんでくるその陰惨な空洞《くうどう》中への墜落、すべてそれらの暗影は人を慄然《りつぜん》たらしむるものに満たされていた。
 ジャヴェルはその暗黒の口をながめながら、しばらくじっとたたずんでいた。専心に似た注視で目に見えないものを見守っていた。水は音を立てて流れていた。すると突然、彼は帽子をぬぎ、それを川岸縁に置いた。一瞬間の後には、帰りおくれた通行人が遠くから見たならば幽霊と思ったかも知れないような黒い高い人影が、胸壁の上にすっくと立ち現われ、セーヌ川の方へ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中にまっすぐに落ちていった。鈍い水音が聞こえた。そして水中に没したその暗い姿の痙攣《けいれん》の秘密は、ただ影のみが知るところだった。
[#改ページ]

   第五編 孫と祖父


     一 亜鉛の張られたる樹木再び現わる

 上に述べきたった事件より少し後、ブーラトリュエルはひどく心を動かされた。
 ブーラトリュエルというのは、あのモンフェルメイュの道路工夫で、本書の暗黒なる場面において読者が既に瞥見《べっけん》した男である。
 読者はたぶん記憶してるだろうが、ブーラトリュエルは種々の怪しい仕事をやっていた。石割りをしながらも、大道で旅客の持ち物を強奪していた。土方《どかた》でかつ盗賊でありながら、一つの夢想をいだいていた。彼は[#「彼は」は底本では「彼はは」]モンフェルメイュの森の中に埋められてるという宝のことを信じていた。いつかはある木の根本の地中に金を見いだしてやるつもりでいた。そしてまずそれまでは通行人のポケットの金に好んで目をつけていた。
 けれども当座の間は彼も謹慎していた。彼はわずかに身を脱したのだった。読者の知るとおり、彼はジョンドレットの陋屋《ろうおく》の中で、他の悪漢らとともに捕縛された。ところが、悪徳も時には役に立つもので、泥酔のために助かった。彼がそこに盗賊としていたのかもしくは被害者としていたのか、どうしてもわからなかった。待ち伏せの晩泥酔していたことが証明されたので、免訴の申し渡しによって、自由の身となった。彼はまた森の中に逃げ込んだ。彼はガンエーからランニーへ至る道路工事に立ち戻り、政府の監視の下に、国家のために道路の手入れをなし、しおれた顔つきをし、ひどく鬱《ふさ》ぎこみ、危うく身を滅ぼさんとした悪事に対してもだいぶ熱がさめていた。しかし身を救ってくれた酒に対しては、いっそうの愛着をもって親しんでいた。
 道路工夫の藁小屋《わらごや》に戻って間もなく、彼がひどく心を動かされたことというのは、次のような事柄だった。
 ある朝まだ日の出より少し前の頃、ブーラトリュエルはいつものとおり仕事に、またおそらくは待ち伏せに出かけたが、その途中で、樹木の枝葉の間にひとりの男を認めた。彼はそのうしろ姿を見ただけだったが、遠方から薄ら明りの中にながめた所では、かっこうにどうやら見覚えがあるような気がした。ブーラトリュエルは酒飲みではあったが、正確|明晰《めいせき》な記憶力を持っていた。そういう記憶力は、法律的方面と多少の争いをしてる者にとっては、欠くべからざる護身の武器である。
「あの男は見かけたような奴《やつ》だが、はてな?」と彼は自ら尋ねてみた。
 しかし、頭の中にぼんやり残ってるだれかにその男が似てるというだけで、そのほかは何にも自ら答えることができなかった。
 それでもブーラトリュエルは、それをだれとはっきりきめることはできなかったが、種々考え合わせ推測してみた。男は土地の者ではない。どこからかやってきた者に相違ない。明らかに徒歩できたのである。今時分モンフェルメイュを通る客馬車は一つもない。男は夜通し歩いたに違いない。それではいったいどこからきたのだろう? 遠方からではない。旅嚢《りょのう》も包みも持っていないのを見てもわかる。きっとパリーからきたのであろう。ところで、なぜこの森の中にきたのか、なぜこんな時刻にきたのか、何をしにきたのか?
 ブーラトリュエルは宝のことを考えた。それから記憶をたどっていると、既に数年前、ある男のことで同じように心をひかれたことがあったのを、ぼんやり思い出した。どうもその男と同一人であるように考えられた。
 そんなことを考えふけりながら、自分の瞑想《めいそう》の重みの下に、彼は頭を下げていた。それは自然のことではあるが、あまり上手なやり方ではなかった。彼が頭を上げた時、もうそこにはだれもいなかった。男は森と薄暗がりとの中に消えてしまっていた。
「畜生め、」とブーラトリュエルは言った、「今一度見つけ出してやらあ。どこの奴《やつ》かさがし出してやらあ。うろついてる盗賊め、何かわけがあるに違いねえ。嗅《か》ぎ出してやるぞ。この森の中で、俺《おれ》に内密《ないしょ》で仕事をしようたって、やれるものか。」
 彼は鋭くとがった鶴嘴《つるはし》を取り上げた。
「さあ、」と彼はつぶやいた、「これで地面でも人間でもさがせる。」
 そして糸と糸とをつなぎ合わしてゆくように、男がたどったと思われる道筋にできるだけよく従いながら、彼は木立ちの中を進み始めた。
 大またに百歩ばかり進んだ頃、上りかける太陽の光の助けを得た。所々砂の上についてる足跡、踏みにじられた草、押し分けられた灌木《かんぼく》、目をさましながら伸びをする美人の腕のようなやさしいゆるやかさで、茂みの中に身を起こしつつある曲げられた若枝、そういうものが彼に道筋を示してくれた。彼はそれに従っていった。それからそれを見失った。時は過ぎていった。彼は森の中に深くはいり込んだ。そして一種の高所に達した。ギーユリーの歌の節《ふし》を口笛で吹きながら遠くの小道を通ってゆく朝の猟人をひとり見て、彼は木へ登ってみようと思いついた。年は取っていたがなかなか敏捷《びんしょう》だった。ちょうどそこには、チチルス([#ここから割り注]訳者注 ※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木の下に横たわってる瞑想的な羊飼い――ヴィルギリウスの詩[#ここで割り注終わり])とブーラトリュエルとにふさわしい※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の大木が一本あった。ブーラトリュエルはできるだけ高くその※[#「木+無」、第3水準1−86−12]に登った。
 それはいい思いつきだった。木立ちが入り組んで森が深くなってる寂然《せきぜん》たる方面をながめ回すと、突然男の姿が見えた。
 しかし男は、見えたかと思うまにまた隠れてしまった。
 男は大木の茂みにおおい隠されてるかなり向こうの開けた場所へ、はいり込んだ、というよりもむしろすべり込んだのである。しかしブーラトリュエルはその開けた場所をよく知っていて、そこには臼石《うすいし》がうずたかく積んであり、そのそばに、亜鉛板《トタンいた》を樹皮へじかに打ち付けてある枯れかかった栗《くり》の木が一本あるのを、よく見ておいた。その開けた場所は、ブラリュの地所と昔言われた所だった。積まれた石は何にするためのものかわからなかったが、三十年前までは確かにそのまま残っていた。今日もまだたぶんそこにあるだろう。板塀《いたべい》がいくら長くもつと言っても、およそ石の積んだのくらい長くもつものはない。ところがそこには一時のものでたくさんで、長くもたせなければならないような理由は一つもなかったのである。
 ブーラトリュエルは喜びの余り大急ぎで、木からおりた、というよりむしろすべり落ちた。穴は見つかった。今は獣を捕えるだけだった。夢みていたあのたいへんな宝は、たぶんそこにあるに違いなかった。
 しかしその開けた場所まで行くのは、そう容易なことではなかった。無数の稲妻形の意地悪く曲がりくねってる知った小道から行けば、十五分くらいは充分かかるのだった。一直線に進んでゆくには、木の茂みがその辺はことに厚く、荊棘《いばら》が深く強くて、三十分はたっぷりかかるのだった。ブーラトリュエルはこの点を思い誤った。彼は一直線の方を信じた。一直線ということは、尊むべき幻覚ではあるが、往々人を誤らせることが多い。茂みが深く交差していたが、ブーラトリュエルはそれを最善の道のように思った。
「狼《おおかみ》の大通りから行ってやれ。」と彼は言った。
 ブーラトリュエルはいつも斜めな道を取るになれていて、こんどだけまっすぐな道を歩くのは誤りだった。
 彼は思い切って、入り乱れた藪《やぶ》の中につき進んだ。
 柊《ひいらぎ》や蕁麻《いらぐさ》や山査子《さんざし》や野薔薇《のばら》や薊《あざみ》や気短かな茨《いばら》などと戦わなければならなかった。非常な掻傷《そうしょう》を受けた。
 低地の底では水たまりに出会って、それを渡らなければならなかった。
 彼はついに四十分ばかりの後、ブラリュの空地へたどりついた。汗を流し、着物をぬらし、息を切らし、肉を引き裂かれ、恐ろしい姿になっていた。
 空地にはだれもいなかった。
 ブーラトリュエルは石の積んである所へ走り寄った。石は元のとおりだった。動かされた跡はなかった。
 男の方は、森の中に消えうせていた。逃げてし
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