してしかそれを知らなかった。秩序は彼の信条であって、それだけで彼には充分だった。成年に達し今の職務について以来、彼は自分の宗教のほとんど全部を警察のうちに置いてしまった。そして、少しも皮肉ではなく、最もまじめな意味において、彼は前にわれわれが言ったとおり、人が牧師であるごとく探偵《たんてい》であった。彼は上官として総監ジスケ氏を持っていた。彼はこの日まで、神という他の上官のことをほとんど考えてみなかった。
この神という新しい主長を彼は意外にも感得して、そのために心が乱された。
彼はその思いがけないものに当面して困惑した。彼はその上官に対してはどうしていいかわからなかった。今まで彼が知っていたところでは、部下は常に身をかがむべきものであり、背反し誹謗《ひぼう》し議論してはいけないものであり、あまりに無茶な上官に対しては[#「対しては」は底本では「対しは」]辞表を呈するのほかはなかった。
しかしながら、神に辞表を呈するにはいかにしたらいいであろうか?
またそれはともかくとして、一つの事実がすべての上に顕然としてそびえ、彼の考えは常にその点に戻っていった。すなわち恐るべき違反の罪を犯したという一事であった。監視違反の再犯囚に対して、彼は目を閉じてきたのだった。ひとりの徒刑囚を放免してきたのだった。法律に属するひとりの男を盗んできたのだった。彼はまさしくそういうことを行なった。彼はもはや自分自身がわからなくなった。自分は果たして本来の自分であるか確かでなかった。自分の行為の理由さえも見失い、ただ眩惑《げんわく》のみが残っていた。彼はその時まで、暗黒なる清廉を生む盲目的な信念にのみ生きていた。しかるに今や、その信念は彼を去り、その清廉は彼になくなった。彼が信じていたことはすべて消散した。自分の欲しない真実が頑強《がんきょう》につきまとってきた。今後彼は別の人間とならなければならなかった。突然|内障眼《そこひ》の手術を受けた本心の異様な苦痛に悩んだ。見るのを厭《いと》っていたものを見た。自己が空《むな》しくなり、無用となり、過去の生命から切り離され、罷免され、崩壊されたのを、彼は感じた。官憲は彼のうちに死滅した。彼はもはや存在の理由を持たなかった。
かき乱されたる地位こそは恐るべきものである。
花崗岩《かこうがん》のごとき心であって、しかも疑念をいだく。法の鋳型の中で全部鋳上げられた懲戒の像であって、しかもその青銅の胸の中に、ほとんど心臓にも似たる不条理不従順なるある物を突然に認める。その日まで悪だと思っていたものが善となり、その善に対して善を報いなければならなくなる。番犬であって、しかも敵の手を舐《なめ》る。氷であって、しかも溶解する。釘抜《くぎぬ》きであって、しかも普通の手となる。突然に指が開くのを感ずる。つかんだ獲物を放つ。それは実に恐怖すべきことである。
もはや進むべき道を知らずして後退する一個の人間の鉄砲弾であった。
自ら次のことを認めざるを得ないとは何たることであろう! すなわち、無謬《むびゅう》なるもの必ずしも無謬ではない。信条のうちにも誤謬があり得る。法典はすべてを説きつくすものではない。社会は完全ではない。官憲も動揺することがある。動かすべからざるもののうちに割れ目のできることがある。裁判官も人間である。法律も誤ることがある。法廷も誤認することがある。大空の広大なる青ガラスにも亀裂が見らるるのか?
ジャヴェルのうちに起こったことは、直線的な心の撓曲《とうきょく》であり、魂の脱線であり、不可抗の力をもってまっすぐに突進し神に当たって砕け散る、清廉の崩壊であった。確かにそれは異常なことだった。秩序の火夫が、官憲の機関車が、軌道を走る盲目なる鉄馬にまたがって進みながら、光明の一撃を受けて落馬したのである。変更を許さざるもの、直接なるもの、正規なるもの、幾何学的なるもの、受動的なるもの、完全なるものが、撓《たわ》んだのである。機関車に対してもダマスクスの道があったのである。([#ここから割り注]訳者注 聖パウロのある伝説に由来し、突然内心の光輝によって心機一転することをダマスクスの道という[#ここで割り注終わり])
常に人の内部にあって真の良心となり虚偽に反発する神、閃光《せんこう》をして消滅することを得ざらしむる禁令、光輝をして太陽を記憶せしむるの命令、魂をして虚構の絶対とそれに接する真の絶対とを見分けしむるの訓令、死滅せざる人間性、滅落せざる人心、そういう燦然《さんぜん》たる現象を、おそらく人間の内部の最も美《うる》わしい不可思議を、ジャヴェルは知ったであろうか。ジャヴェルはそれを見通したであろうか。ジャヴェルはそれを了解したであろうか。否々。しかしながら、その不可解にして明白なるものの圧力の下に、彼は自分の頭脳が少しく開けるのを感じた。
彼はその異変のために面目を一新した、というよりもむしろその犠牲となった。彼は憤激しながらそれに打たれた。彼がその中に見たところのものは、存立の大なる困難のみだった。爾来《じらい》永久に呼吸を妨げられるような心地がした。
頭の上に未知のものを持つこと、それに彼はなれていなかった。
それまで自分の上に持ってたところのものは、明確単純清澄な表面であるように彼の目には見えていた。そこには、何ら未知のものもなく暗黒なものもなかった。規定されたるもの、整理されたるもの、鎖につなぎ止められたるもの、簡明なるもの、正確なるもの、範囲の定められたるもの、限定されたるもの、閉鎖されたるもの、ばかりであった。すべて予見されたるものであった。官憲は一つの平坦なるものであった。その中には何らの墜落もなく、それに対しては何らの眩惑《げんわく》もなかった。ジャヴェルが今まで未知のものを見てきたのは、ただ下方においてのみだった。不規律、意想外、渾沌界《こんとんかい》の錯雑した入り口、いつすべり落ちるかもわからない深淵《しんえん》、そういうものは、賊徒や悪人や罪人などのすべて下層地帯に存在していた。しかるに今ジャヴェルはあおむけに転倒し、異様な妖怪すなわち上方の深淵を見て、にわかに狼狽《ろうばい》した。
どうしたことであろう、徹頭徹尾突きくずされ、絶対に失調させられるとは! およそ何に信頼したらいいか。確信していたものが崩壊してしまうとは!
社会の鎧《よろい》の欠陥が寛厚なる一罪人によって見いだされ得るのか。法律の正直なる僕《しもべ》が、ひとりの男を放免するの罪とそれを捕縛するの罪との二つの罪の間に、突然板ばさみになることがあり得るのか。国家が役人に与える訓令のうちにも、不確かなるものがあるのか。義務のうちにも行き止まりがあるものなのか。ああそれらはすべて実際のことだったのか。刑罰の下に屈している昔の悪漢がすっくと立ち上がってついに正当となることがあるのも、真実だったのか。そんなことが信じ得られようか。それでは、法律も変容した罪悪の前に宥免《ゆうめん》を乞《こ》いながら退かなければならないような場合が、世にはあるのか。
そうだ、それは事実であった。ジャヴェルはそれを見、それに触れた。ただにそれを否定し得なかったばかりでなく、自らその渦中《かちゅう》のひとりであった。それはまさしく現実であった。現実がかかる異様な姿になり得るとは、実に呪《のろ》うべきことだった。
もし事実がその本分を守るならば、必ずや事実は法を証明することをしかしないであろう。なぜならば、事実を世に送るものは神であるから。しかるに今や、無政府主義までが天からおりてこようとするのか。
かくて、ますます加わってくる煩悶《はんもん》のうちに、茫然《ぼうぜん》自失した幻覚のうちに、ジャヴェルの感銘を押さえ止め訂正するすべてのものは消えうせ、社会も人類も宇宙も皆、彼の目には爾来《じらい》ただ単に忌まわしいだけの姿となって映じた。そして、刑法、判決、至当なる立法の力、終審裁判所の決定、司法官職、政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、法律の無謬《むびゅう》、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条、国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公の真理、すべてそれらのものは、破片となり塵芥《じんかい》となり渾沌《こんとん》たるものとなってしまった。秩序の監視人であり、警察の厳正な僕《しもべ》であり、社会を保護する番犬である、彼ジャヴェル自身も、打ち負かされてしまった。そしてそれらの廃墟の上に、緑の帽を頭にかぶり円光を額にいただいてるひとりの男が立っていた。彼が陥った惑乱はそういうものであり、彼が魂のうちに持った恐るべき幻はそういうものであった。
それはたえ得ることであったろうか。否。
きびしい状態があるとすれば、それこそまさにきびしい状態であった。それから脱する道は二つしかなかった。一つは、決然としてジャン・ヴァルジャンに向かって進んでゆき、徒刑囚たる彼を地牢《ちろう》に返納すること。今一つは……。
ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、こんどは頭をもたげて、シャートレー広場の片すみにともってる軒灯で示されている衛舎の方へ、確乎《かっこ》たる足取りで進んでいった。
そこまで行って彼は、ひとりの巡査が中にいるのをガラス戸から認め、自分もはいっていった。衛舎の扉《とびら》のあけ方だけででも、警察の者らは互いにそれと知り得るのである。ジャヴェルは自分の名前を告げ、名刺を巡査に示し、それから一本の蝋燭《ろうそく》がともってるそのテーブルの前にすわった。テーブルの上には、一本のペンと、鉛のインキ壺《つぼ》と、少しの紙とがのっていた。不時の調書や夜間|巡邏《じゅんら》の訓令などのために備えてあるものだった。
いつも一個の藁椅子《わらいす》がついてるそのテーブルは、規定の品である。いずれの分署にも備えてある。そして必ず、鋸屑《のこくず》がいっぱいはいってる黄楊《つげ》の平皿と、赤い封蝋がいっぱいはいってるボール箱とが上にのっている。それは官省ふうの最下級をなすものである。国家の文学はまずそこで始まる。
ジャヴェルはペンと一枚の紙とを取って、書き始めた。彼が書いた文句は次のとおりだった。
[#ここから2字下げ]
職務上の注意事項
一、警視総監閣下の一瞥《いちべつ》せられんことを願う。
二、予審廷より来る囚徒らは、身体検査中、靴《くつ》を脱ぎ跣足《はだし》のまま舗石《しきいし》の上に佇立《ちょりつ》す。監獄に戻るにおよんで多くは咳《せき》を発す。ために病舎の費用を増すに至る。
三、製糸監は、所々に警官の配置あるをもってはなはだよろし。しかれども、重大なる場合のために、少なくともふたりの警官は互いに見得る位置を保つ要あるべし。かくせば、もし何らかの理由によって、ひとりが務めを怠ることありとも、他のひとりがそれを監視し補足するを得ん。
四、マドロンネット監獄においては、たとい金を払うも囚徒に椅子《いす》を与えざる特殊の規則あれど、その何ゆえなるやを解する能《あた》わず。
五、マドロンネットにおいては、酒保の窓に二本の鉄棒あるのみ。これ酒保をして、囚徒に手を触るるを得せしむるものなり。
六、呼び出し人と普通に称せられて他の囚徒らを面会所に呼ぶの用をなす囚徒は、名前を声高に叫ぶごとに当人より二スーずつ徴発す。これ一つの奪取なり。
七、一筋の糸のたれたるものあれば、該囚徒は織物工場において十スーずつ賃金を差し引かる。これ請け負い者の弊風なり。織物はそのために粗悪となるものに非ざればなり。
八、フォルス監獄を訪れる者が、サント・マリー・レジプシエンヌ面会所に至るために、必ず「小僧の中庭」を通るは、憂慮すべきことなり。
九、毎日憲兵らが、警視庁の中庭において、司法官らの行なえる尋問を語り合うは、確かなる事実なり。神聖なるべき憲兵が、予審廷にて聞けることを繰り返し語るは、風紀の重大なる紊乱《びんらん》なり。
十、アンリー夫人は正直なる女にして、その酒保はきわめて清潔なり。しかれども、秘密監の罠《わな》の口をひと
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