家の中は皆寝静まっていた。マレーでは皆早寝で、ことに暴動の日などはそうである。その善良な古い町は、革命と聞くと恐れおののき、眠りの中に逃げ込んでしまう。あたかも子供らが、人攫《ひとさら》い鬼の来るのを聞いて、急いで頭からふとんをかぶるようなものである。
その間に、ジャン・ヴァルジャンは両わきをささえ御者は膝《ひざ》を持って、ふたりでマリユスを馬車から引き出した。
そういうふうにマリユスをかかえながら、ジャン・ヴァルジャンは大きく裂けてる服の下に手を差し込んで、その胸にさわってみ、なお心臓が鼓動してるのを確かめた。しかも、馬車の動揺のためにかえって生命を取り返したかのように、心臓の鼓動はいくらか前よりもよくなっていた。
ジャヴェルはいかにも暴徒の門番に対する役人といった調子で、その門番に口をきいた。
「ジルノルマンという者の家はここか。」
「ここですが、何の御用でしょう?」
「息子を連れ戻してきたのだ。」
「息子を?」と門番はぼんやりしたふうで言った。
「死んでいるんだ。」
よごれたぼろぼろの服をつけたジャン・ヴァルジャンが、ジャヴェルのうしろに立ってるので、門番は恐ろしそうにそちらをながめていた。するとジャン・ヴァルジャンは頭を振って、死んでるのではないと合い図をした。
門番にはジャヴェルの言葉もジャン・ヴァルジャンの合い図もよくわからないらしかった。
ジャヴェルは続けて言った。
「この者は防寨《ぼうさい》に行っていたが、このとおり連れてきたのだ。」
「防寨に!」と門番は叫んだ。
「そして死んだのだ。親父《おやじ》を起こしに行け。」
門番は身を動かさなかった。
「行けと言ったら!」とジャヴェルはどなった。
そして彼は付け加えた。
「いずれ明日《あす》は葬式となるだろう。」
ジャヴェルにとっては、公道における普通のできごとは、すべて整然と分類されていた。それは警戒と監視との第一歩である。そして各事件はそれぞれの部門を持っていた。普通にありそうな事柄はすべて、言わば引き出しの中にしまわれていて、場合に応じて必要なだけ取り出さるるのだった。街路の中には、騒擾、暴動、遊楽、葬式、などがあった。
門番はただバスクだけを起こした。バスクはニコレットを起こした。ニコレットはジルノルマン伯母を起こした。祖父の方はなるべく遅く知らせる方がいいとされて、眠ったままにして置かれた。
マリユスは建て物の他の部屋《へや》の者がだれも気づかないうちに二階に運ばれ、ジルノルマン氏の次の室《へや》の古い安楽椅子《あんらくいす》に寝かされた。そしてバスクが医者を迎えに行き、ニコレットが箪笥《たんす》を開いてる間に、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルから肩をとらえられてるのを感じた。
彼はその意味を了解し、ジャヴェルの足音をうしろにしたがえながら階段をまたおりていった。
門番は恐ろしい夢の中にいるような心地で、彼らがはいってきたとおりにまた出て行くのをながめた。
彼らは再び馬車に乗った。御者も御者台に上った。
「ジャヴェル警視、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「も一つ許してもらいたい。」
「何だ?」とジャヴェルは荒々しく尋ねた。
「ちょっと自宅に戻るのを許してほしい。それからあとは君の存分にしてもらおう。」
ジャヴェルは上衣のえりに頤《あご》を埋め、しばらく黙り込んでいたが、それから前の小窓を開いた。
「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地へやれ。」
十一 絶対者の動揺
彼らは先方に着くまで一言も口をきかなかった。
ジャン・ヴァルジャンが望んでいることは何であったか? 既にはじめたところをなし終えること、すなわち、コゼットに事情を知らせ、彼女にマリユスの居所を告げ、他の何か有益な注意を与え、またでき得るならばある最後の処置を取ることだった。彼自身のことは、彼一身に関することは、万事終わっていた。彼はジャヴェルに捕えられ、少しも抵抗しなかった。もし他の者がそういう地位に立ったら、テナルディエにもらった綱とこれからはいるべき第一の地牢《ちろう》の格子窓《こうしまど》とに、おそらく漠然《ばくぜん》と思いを馳《は》せたであろう。しかしミリエル司教に会って以来ジャン・ヴァルジャンのうちには、あらゆる暴行に対して、あえて言うが自身の生命を害する暴行に対しても、深い敬虔《けいけん》な躊躇《ちゅうちょ》の情があったのである。
自殺ということは、未知の世界に対する一種神秘的な違法行為であり、ある程度まで魂の死を含み得るものであって、ジャン・ヴァルジャンにはなし得ないことだった。
オンム・アルメ街の入り口で馬車は止まった。その街路は非常に狭くて馬車ははいれなかった。ジャヴェルとジャン・ヴァルジャンとは馬車から降りた。
御者は馬車のユトレヒト製ビロードが、被害者の血と加害者の泥《どろ》とで汚点だらけになったことを、「警視様」にうやうやしく申し出た。彼はその事件を殺害だと思っていたのである。そして損害を弁償してもらわなければならないと言い添えた。同時に彼はポケットから手帳を取り出して、「何とか御証明を一行」その上に書いていただきたいと警視様に願った。
ジャヴェルは御者が差し出してる手帳を退けて言った。
「待ち合わせと馬車代とをいれて全部でいくらほしいのか。」
「七時間と十五分になりますし、」と御者は答えた、「ビロードはま新しだったものですから、警視様、八十フランいただきましょう。」
ジャヴェルはポケットからナポレオン金貨を四つ取り出して与え、馬車を返してやった。
ジャン・ヴァルジャンはすぐ近くにあるブラン・マントーの衛舎かアルシーヴの衛舎かに、ジャヴェルが自分を徒歩で連れてゆくつもりだろうと思った。
彼らはオンム・アルメ街にはいって行った。街路はいつものとおり寂然としていた。ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとに従った。彼らは七番地に達した。ジャン・ヴァルジャンは門を叩いた。門は開いた。
「よろしい。上ってゆくがいい。」とジャヴェルは言った。
そして妙な表情をし、強《し》いて口をきいてるかのようなふうで言い添えた。
「わたしはここで君を待っている。」
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの顔をながめた。そんなやり方はジャヴェルの平素にも似合わぬことだった。けれども、今ジャヴェルが一種|傲然《ごうぜん》たる信任を彼に置いているとしても、それはおのれの爪《つめ》の長さだけの自由を鼠《ねずみ》に与える猫《ねこ》の信任であるし、またジャン・ヴァルジャンは一身を投げ出して万事を終わろうと決心していたので、別に大して驚くにも当たらないことだった。彼は戸を押し開き、家の中にはいり、もう寝ていて寝床の中から門を開く綱を引いてくれたその門番に、「私だ」と言い残し、階段を上っていった。
二階にきて彼は立ち止まった。あらゆる悲しみの道にも足を休むべき場所がある。階段の上の窓は、揚げ戸窓になっていたが、いっぱい開かれていた。古い家には多く見受けられるとおり、その階段も外から明りが取られていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光が少し階段に差して灯火《あかり》の倹約となっていた。
ジャン・ヴァルジャンは息をつくためかあるいはただ機械的にか、その窓から頭を出した。そして街路の上に身をかがめてみた。街路は短くて、端から端まで明るく街灯に照らされていた。ジャン・ヴァルジャンは惘然《ぼうぜん》として我を忘れた。そこにはもうだれもいなかったのである。
ジャヴェルは立ち去っていた。
十二 祖父
人々からとりあえず安楽椅子《あんらくいす》の上にのせられたまま身動きもしないで横たわってるマリユスを、バスクと門番とは客間の中に運んだ。呼ばれた医者は駆けつけてきた。ジルノルマン伯母《おば》は起き上がっていた。
ジルノルマン伯母は驚き恐れて、うろうろし、両手を握り合わせ、「まあどうしたことだろう、」と口にするきり何にもできなかった。時とするとまた言い添えた、「何もかも血だらけになる。」それから最初の恐怖がしずまると、彼女の頭にも事情が多少わかってきて、「こうなるにきまっている、」という言葉を出させた。それでも彼女は、そういう場合によく口にされる「私が言ったとおりだ[#「私が言ったとおりだ」に傍点]」とまでは言わなかった。
医者の言いつけで、たたみ寝台が一つ安楽椅子のそばに据えられた。医者はマリユスを診察して、脈がまだ続いており、胸には一つも深い傷がなく、脣《くちびる》のすみの血は鼻孔から出てるものであることを検《しら》べ上げた後、彼を平たく寝台の上に寝かし、呼吸を自由にさせるために、上半身を裸にし、枕《まくら》を与えないで頭が身体と同じ高さに、というよりむしろ多少低くなるようにした。ジルノルマン嬢はマリユスが裸にされるのを見て席をはずした。そして自分の室《へや》で念珠祈祷《ねんじゅきとう》を唱えはじめた。
胴体は内部におよぶ傷害を一つも受けていなかった。一弾は紙挾《かみばさ》みに勢いをそがれ、横にそれて脇《わき》にひどい裂傷を与えていたが、それは別に深くはなく、したがって危険なものではなかった。下水道の中を長く通ってきたために、折れた鎖骨はまったく食い違って、そこに重な損傷があった。両腕は一面にサーベルを受けていた。顔にはひどい傷は一つもなかった。けれども頭はすっかりめちゃくちゃになっていた。それらの頭部の傷はどういう結果をきたすであろうか、頭皮だけに止まってるのだろうか、脳をも侵してきはしないだろうか? その点がまだ不明だった。重大な兆候は、それらの傷のために気絶してることであって、そういう気絶からはついに再びさめないことがよくある。その上彼は出血のために弱りきっていた。ただ帯から下の部分は、防寨《ぼうさい》にまもられて無事だった。
バスクとニコレットとは布を引き裂いて繃帯《ほうたい》の用意をした。ニコレットはそれを縫い、バスクはそれを巻いた。綿撒糸《めんざんし》がないので、医者は一時綿をあてて傷口の出血を止めた。寝台のそばには、外科手術の道具が並べられてるテーブルの上に、三本の蝋燭《ろうそく》が燃えていた。医者は冷水でマリユスの頬と頭髪とを洗った。桶《おけ》一杯の水はたちまち赤くなった。門番は手に蝋燭を持ってそれを照らしていた。
医者は悲しげに考え込んでいるらしかった。時々彼は自ら心のうちで試みてる問に自ら答えるように、否定的に頭を振った。医者がひとりでやるその不思議な対話は、病者に対する悪いしるしである。
医者がマリユスの顔をぬぐって、なお閉じたままの眼瞼《まぶた》に軽く指先をさわった時、その客間の奥の扉《とびら》が開いて、青ざめた長い顔が現われた。
祖父であった。
二日間の暴動は、ジルノルマン氏をひどく刺激し怒らせ心痛さしていた。前夜彼は一睡もできず、またその一日熱に浮かされていた。晩になると、家中の締まりをよくしろと言いつけながら、早くから床について、疲労のため軽い眠りに入った。
老人の眠りはさめやすいものである。ジルノルマン氏の室《へや》は客間に接していたので、皆は用心をしていたが、物音は彼をさましてしまった。彼は扉《とびら》のすき間から見える光に驚いて、寝床から起き出し、手探りにやってきた。
彼は閾《しきい》の上に立ち、半ば開いた扉の取っ手に片手をかけ、頭を少し差し出してふらふらさし、身体は経帷子《きょうかたびら》のように白いまっすぐな無襞《むひだ》の寝間着に包まれ、びっくりした様子であった。その姿はあたかも墳墓の中をのぞき込んでる幽霊のようだった。
彼は寝台を見、ふとんの上の青年を見た。青年は血にまみれ、皮膚は蝋《ろう》のように白く、目は閉じ、口は開き、脣《くちびる》は青ざめ、帯から上は裸となり、全身まっかな傷でおおわれ、身動きもせず、明るく照らし出されていた。
祖父は頭から足先までその固い五体の許すだけ震え上がり、老年のために目じりが黄色くなってる両眼はガ
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