してしまった。死守する防寨《ぼうさい》はすべて、一定の時を経れば必然にメデューズ号の筏《いかだ》([#ここから割り注]訳者注 メデューズ号の難破者らが乗り込んで十三日間大洋の上を漂っていた筏[#ここで割り注終わり])となるものである。人々は飢餓に忍従しなければならなかった。サン・メーリーの防寨では、パンを求むる暴徒らにとり巻かれたジャンヌが、「食物!」と叫んでいる声に対して、「何で食物がいるか、今は三時だ、四時には皆死ぬんだ、」と答えた。そういう悲壮な六月六日の日が、到来したばかりの時だったのである。
 もう食物を得ることができなかったので、アンジョーラは飲み物を禁じた。葡萄酒《ぶどうしゅ》を厳禁して、ただブランデーだけを少し分配してやった。
 居酒屋の窖《あなぐら》の中で、密封した十五本ばかりの壜《びん》が見いだされた。アンジョーラとコンブフェールとはそれを調べてみた。コンブフェールは窖から出て来ながら言った。「初め香料品を商《あきな》っていたユシュルー爺《じい》さんの昔の資本《もとで》だ。」するとボシュエは言った。「本物の葡萄酒《ぶどうしゅ》に違いない。グランテールが眠ってるのは仕合わせだ。奴《やつ》が起きていたら、なかなかこのまま放っておきはすまい。」種々不平の声をもらす者もあったが、アンジョーラはその十五本の壜に最後の断案を下して、だれの手にも触れさせないで神聖な物としておくために、マブーフ老人が横たわってるテーブルの下に並べさした。
 午前二時ごろ人数を調べてみると、なお三十七人いた。
 夜は明けかかってきた。舗石《しきいし》の箱の中に再びともしていた炬火《たいまつ》を、人々は消してしまった。街路から切り取った小さな中庭のような防寨の内部は、やみに満たされて、払暁《ふつぎょう》の荒涼たる微明のうちに、こわれた船の甲板に似寄っていた。行ききする戦士の姿は、まっ黒な影のように動いていた。そしてその恐るべき闇《やみ》の巣窟《そうくつ》の上には、黙々たる幾階もの人家が青白く浮き出していた。更に上の方には、煙筒がほの白く立っていた。空は白とも青ともつかない微妙な色にぼかされていた。小鳥は楽しい声を立てながら空を飛んでいた。防寨《ぼうさい》の背景をなしている高い人家は、東に向いていたので、屋根の上に薔薇色《ばらいろ》の反映が見えていた。その四階の軒窓には、殺された門番の灰色の頭髪が、朝の微風になぶられていた。
「炬火《たいまつ》を消したのはうれしい。」とクールフェーラックはフイイーに言った。「風に揺らめいてるあの光はいやでならなかった。まるで何かをこわがってるようだった。炬火の光というものは、卑怯者の知恵みたいなものだ。いつも震えてばかりいて、ろくに照らしもしないからね。」
 曙《あけぼの》は小鳥を目ざめさせるとともに、人の精神をもさまさせる。人々はみな話しはじめた。
 ジョリーは樋《とい》の上をぶらついてる一匹の猫《ねこ》を見て、それから哲学を引き出した。
「猫とはいかなるものか知ってるか。」と彼は叫んだ。「猫は一つの矯正物《きょうせいぶつ》だ。神様は鼠《ねずみ》をこしらえてみて、やあこいつはしくじったと言って、それから猫をこしらえた。猫は鼠の正誤表だ。鼠プラス猫、それがすなわち天地創造の校正なんだ。」
 コンブフェールは学生や労働者らに取り巻かれて、ジャン・プルーヴェールやバオレルやマブーフやまたル・カブュクのことまで、すべて死んだ人々のことを話し、またアンジョーラの厳粛な悲哀のことを語っていた。彼はこう言った。
「ハルモディオスとアリストゲイトン、ブルツス、セレアス、ステファヌス、クロンウェル、シャーロット・コルデー、サント、なども皆、手を下した後に一時悲哀を感じたのだ。人の心はたやすく傷《いた》むものであり、人生は至って不思議なものである。公徳のための殺害の場合でも、もしありとすれば救済のための殺害の場合でも、ひとりの者を仆《たお》したという悔恨の念は、人類に奉仕したという喜びの情より深いものだ。」
 そして話は種々のことに飛んだが、やがてジャン・プルーヴェールの詩のことから一転して、ゼオルジック[#「ゼオルジック」に傍点]([#ここから割り注]訳者注 ヴィルギリウスの詩[#ここで割り注終わり])の翻訳者らの比較を試み、ローとクールナンとを比べ、クールナンとドリーユとを比べ、マルフィラートルが訳した数節、ことにシーザーの死に関する名句をあげたが、そのシーザーという言葉から、話はまたブルツスの上に戻った。
「シーザーの覆滅は至当である。」とコンブフェールは言った。「キケロはシーザーにきびしい言葉を下したが、あれは正当だ。あの酷評は決して悪口ではない。ゾイルスがホメロスを嘲《あざけ》り、メヴィウスがヴィルギリウスを嘲り、ヴィゼがモリエールを嘲り、ポープがセークスピヤを嘲り、フレロンがヴォルテールを嘲ったのは、昔からよくある嫉妬《しっと》と憎みからきたのである。天才は嘲笑《ちょうしょう》を受け、偉人は多少人から吠《ほ》えらるるのが常である。しかしゾイルス輩とキケロとはまったく別者だ。キケロは思想による審判者である。あたかもブルツスが剣による審判者であるのと同じだ。僕に言わすれば、後者の審判すなわち剣によるものは好ましくない。しかし古代はそれを許していた。ルビコンを渡ったシーザーは、民衆から来るもろもろの地位をおのれから出るもののように人に授け、元老院に姿を現わさず、エウトロピウスが言ったように、王のごときまたほとんど暴君のごときこと[#「王のごときまたほとんど暴君のごときこと」に傍点]を行なった。そして彼は偉人であったために、それだけ不幸ともまた幸とも言える。なぜなれば、彼が偉人であっただけにいっそうその教訓は高遠となったから。しかし僕の目から見れば、彼が受けた二十三の傷は、イエス・キリストの額に吐きかけられた唾《つば》ほどの痛切さを持たない。シーザーは元老院の議員らから刺されたが、キリストは下男らから侮辱され頬《ほお》を打たれた。侮辱がより大なるがゆえに、人は神を感ずるのだ。」
 積み重ねた舗石《しきいし》の上からそれらの会談者らを見おろしながら、ボシュエはカラビン銃を手にしたまま叫び出した。
「おお、シダテネオム、ミリノス、プロバリンテよ、エアンチデの三女神よ! ああたれかわれをして、ラウリオムやエダプテオンのギリシャ人のごとくに、ホメロスの詩を誦《ず》せしむる者があるか!」

     三 光明と陰影

 アンジョーラは偵察《ていさつ》に出かけていた。彼は軒下に沿ってモンデトゥール小路から出て行った。
 ちょっとことわっておくが、暴徒らは皆希望に満ちていた。たやすく前夜の襲撃を撃退したので、夜明けの襲撃をも前もってほとんど軽蔑するような気になっていた。彼らはその襲撃を微笑しながら待ち受けていた。彼らはおのれの主旨を確信するとともに、成功をもはや疑わなかった。その上援兵もきつつあるに違いないと思っていた。彼らはそれをあてにしていた。光明的な楽観をもって前途を速断するのは、フランス戦士の力の一つである。彼らはきたらんとする一日を三つの局面に分かって、それを確信していた。すなわち、朝六時には「かねて手を入れておいた」一個連隊が裏切ってくる、正午にはパリー全市が立ち上がる、日没の頃には革命となる。
 サン・メーリーの警鐘が前日絶えず鳴り続けてるのが聞こえていた。それは、も一つの大きな防寨《ぼうさい》、すなわちジャンヌの防寨が、なお支持してる証拠であった。
 それらの希望は、蜂《はち》の巣における戦いの騒音のように、一種の快活なまた恐ろしいささやきとなって、人々の群れから群れへとかわされていた。
 アンジョーラは再び姿を現わした。彼は外部の暗黒の中をひそかに鷲《わし》のように翔《かけ》り回って戻ってきたのである。彼はしばし、両腕を組み片手を口にあてて、人々の喜ばしい話を聞いていた。それから、しだいに白んでゆく曙《あけぼの》の色の中にいきいきした薔薇《ばら》のような姿で言った。
「パリーの全兵士が動員している、その三分の一はこの防寨《ぼうさい》に押し寄せてくるんだ。その上国民兵も加わっている。僕は歩兵第五連隊の帽子と国民兵第六連隊の旗とを見て取った。攻撃までには一時間ばかりの余裕しかない。人民の方は、昨日は沸き立っていたが、今朝は静まり返っている。今はもう待つべきものも希望すべきものもない。郭外も連隊も共にだめだ。われわれは孤立だ。」
 その言葉は、人々の騒々しい話声の上に落ちかかって、蜂《はち》の巣の上に落ちてくる暴風雨の最初の一滴のような結果を生じた。皆口をつぐんでしまった。死の翔り回るのが聞こえるような名状し難い沈黙が、一瞬間続いた。
 それはごくわずかの間だった。
 群集の最も薄暗い奥の方から、一つの声がアンジョーラに叫んだ。
「よろしい。防寨を二丈の高さにして皆で死守しよう。諸君、死屍《しかばね》となっても抵抗しようではないか。人民は共和党を見捨てるとしても、共和党は人民を見捨てないことを、示してやろうではないか。」
 その言葉は、すべての者の頭から個人的な心痛の暗雲を払い去った。そして熱誠な拍手をもって迎えられた。
 右の言葉を発した男の名前は永久に知られなかった。それはある労働服を着た無名の男であり、見知らぬ男であり、忘れられた男であり、過ぎ去ってゆく英雄であった。かかる無名の偉人は、常に人類の危機と社会の開闢《かいびゃく》とに交じっていて、一定の時機におよんで断乎《だんこ》として決定的な一言を発し、電光のひらめきのうちに一瞬間民衆と神とを代表した後、またたちまち暗黒のうちに消えうせるものである。
 不屈の決心は、一八三二年六月六日の空気に濃く漂っていた。右のこととほとんど同時に、サン・メーリーの防寨《ぼうさい》のうちでは、暴徒らが次の喊声《かんせい》を上げた。それは史上にも残り、当時の判定録にもしるされたものである。「援兵が来ると否とは問うところでない! われわれは最後のひとりまでここで戦死を遂げるんだ。」
 読者の見るとおり、両防寨は実際上孤立してはいたが、精神は互いに通い合っていたのである。

     四 五人を減じひとりを加う

「死屍《しかばね》の抵抗」を宣言した無名の男が、共通の魂の言葉を発した後、一同の口から何とも言えぬ満足した恐るべき叫びが出てきた。その意味は沈痛であったが調子は勇壮であった。
「戦死万歳! 全員ここにふみ止まろう。」
「なぜ全員だ?」とアンジョーラは言った。
「全員! 全員!」
 アンジョーラは言った。
「地の理はよく、防寨は堅固だ。三十人もあれば充分だ。なぜ四十人を全部犠牲にする必要があるか?」
 人々は答え返した。
「ひとりも去りたくないからだ。」
「諸君!」とアンジョーラは叫んだ。その声はほとんど激昂《げっこう》に近い震えを帯びていた。「共和は無用な者まで犠牲にするほど豊富な人数を有しない。虚栄は浪費である。ある者にとっては立ち去ることが義務であるならば、その義務もまた他の義務と同様に果たすべきではないか。」
 主義の人なるアンジョーラは、絶対のものから来るような偉力を同志の上に有していた。しかしその絶対的権力にもかかわらず、人々はなお不平をもらした。
 徹頭徹尾首領たるアンジョーラは、人々がつぶやくのを見て、なお主張した。彼は昂然として言った。
「ただ三十人になることを恐れる者はそう言え。」
 不満のつぶやきはますます高まった。
「それに、」とある群れの中から声がした、「立ち去ると口で言うのは容易だが、防寨《ぼうさい》は包囲されてるんだ。」
「市場町の方は開いている。」とアンジョーラは言った。
「モンデトゥール街は自由だ、そしてプレーシュール街からインノサン市場へ出られる。」
「そしてそこで捕《つかま》る。」と群れの中から他の声がした。「戦列兵か郊外兵かの前哨《ぜんしょう》に行き当たる。労働服をつけ縁無し帽をかぶって通ればすぐ向こうの目につく。どこからきたか
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