数であったこの防寨は、立憲議会と民衆の大権と普通選挙と国民と共和とを向こうにまわしたのである。それはマルセイエーズ([#ここから割り注]フランス国歌[#ここで割り注終わり])にいどみかかるカルマニョールの歌([#ここから割り注]革命歌[#ここで割り注終わり])であった。
狂乱せるしかも勇壮なる挑戦《ちょうせん》であった。なぜなれば、この古い郭外は一個の英雄だからである。
郭外と角面堡《かくめんほう》とは互いに力を合わしていた。郭外は角面堡の肩にすがり、角面堡は郭外に身をささえていた。広い防寨は、アフリカの諸将軍の戦略をも拉《ひし》ぐ断崖《だんがい》のごとく横たわっていた。その洞窟《どうくつ》、その瘤《こぶ》、その疣《いぼ》、その隆肉などは、言わば顔を顰《しか》めて、硝煙の下に冷笑していた。霰弾《さんだん》は形もなく消えうせ、榴弾《りゅうだん》は埋まり没しのみ込まれ、破裂弾はただ穴を明け得るのみだった。およそ混沌《こんとん》たるものを砲撃しても何の効があろう。戦役の最も荒々しい光景になれていた各連隊も、猪《いのしし》のごとく毛を逆立て山のごとく巨大なその角面堡《かくめんほう》の野獣を、不安な目でながめたのである。
そこから約四半里ばかり先、シャトー・ドーの近くで大通りに出てるタンプル街の角《かど》で、ダルマーニュという商店の少しつき出た店先から思いきって頭を出してみると、遠くに、運河の向こうに、ベルヴィルの坂道を上ってる街路の中、坂道を上りきった所に、人家の三階の高さに達する不思議な障壁が見られた。それはあたかも左右の軒並みを連ねたがようで、街路を一挙にふさぐために最も高い壁を折り曲げたがようだった。しかしその壁は、実は舗石《しきいし》で築かれていたのである。まっすぐで、規則正しく、冷然として、垂直になっており、定規をあて墨繩《すみなわ》を引き錘鉛《すいえん》をたれて作られたもののようだった。もとよりセメントは用いられていなかったが、しかもローマのある障壁に見らるるように、そのため建築上の強固さは少しも減じていなかった。高さから推してまた奥行も察せられた。上層と地覆《ちふく》とはまったく数学的な平行を保っていた。灰色の表面には所々に、ほとんど目につかないくらいの銃眼の列が黒い糸のように見えていた。各銃眼の間には一定の等しい距離が置かれていた。街路には目の届くかぎり人影もなかった。窓も扉《とびら》も皆しめ切ってあった。そして奥に立っている防壁のために、あたかも袋町のようになっていた。防壁は不動のまま静まり返っていた。何らの人影も見えず、何らの音も聞こえなかった。一つの叫び声もなく、一つの物音もなく、息の音さえもなかった。まったく一つの墳墓だった。
六月のまぶしい太陽は、その恐るべき物の上に一面の光を浴びせていた。
これが、タンプル[#「タンプル」は底本では「タンブル」]郭外の防寨《ぼうさい》であった。
この場所に行ってそれをながむると、最も豪胆な者でもその神秘な出現の前に考え込まざるを得なかった。それはよく整い、よく接合し、鱗形《うろこがた》に並び、直線をなし、均斉《きんせい》を保ち、しかも凄惨《せいさん》な趣があった。学理と暗黒とがこもっていた。防寨《ぼうさい》の首領は、幾何学者かもしくは幽鬼かと思われた。人々はそれをながめ、そして声低く語り合った。
時々、兵士か将校かあるいは代議士かだれかが、偶然その寂しい大道を通りかかると、鋭いかすかな音がして、通行者は負傷するか死ぬかして地に倒れた。もし幸いにそれを免れる時には、閉ざされた雨戸か、素石の間か、壁の漆喰《しっくい》かの中に、一発の弾《たま》がはいり込むのが見られた。時とするとそれはビスカイヤン銃のこともあった。防寨の人々は多く、一端を麻屑《あさくず》と粘土とでふさいだ鋳鉄のガス管二本で、二つの小さな銃身をこしらえていた。ほとんど火薬をむだに費やすことはなかった。弾はたいてい命中した。そこここに死体が横たわって、舗石《しきいし》の上には血がたまっていた。また著者は、一匹の白い蝶《ちょう》が街路を飛び回ってたことを記憶している。さすがに夏の季節だけは平然としていた。
付近の大きな門の下には、負傷者がいっぱいはいっていた。
そこでは、姿を隠してるだれかから常にねらわれるような感があった。明らかに街路中どこででもねらい打ちにされるらしかった。
タンプル郭外の入り口に運河の円橋がこしらえてる驢馬《ろば》の背中ほどの空地の後ろに、攻撃縦列をなして集まってる兵士らは、そのものすごい角面堡《かくめんほう》を、その不動の姿を、その冷然たる様を、しかも死を招くその場所を、まじめな考え込んだ様子で偵察《ていさつ》していた。ある者らは、帽子が向こうに見えないように注意しながら、穹窿形《きゅうりゅうけい》の橋の上まで腹ばいになって進んでいった。
勇敢なるモンテーナール大佐は、身を震わしながらその防寨を嘆賞した。彼はひとりの代議士に言った。「うまく築いたものだ[#「うまく築いたものだ」に傍点]! 一つの不ぞろいな舗石もない[#「一つの不ぞろいな舗石もない」に傍点]。まるで磁器ですね[#「まるで磁器ですね」に傍点]。」その時、一発の弾は、彼の勲章を打ち砕いた。彼は倒れた。
「卑怯者《ひきょうもの》め!」とある者は言った、「姿を現わせ、見える所に出てこい。それができないのか。隠れてばかりいるのか!」
しかしこのタンプル郭外の防寨《ぼうさい》は、八十人の者に守られ一万の兵に攻撃されて、三日の間持ちこたえた。四日目に、ザアチャーやコンスタンティーヌの都市になされたのと同様の方法が用いられ、人々は人家をうがち、または屋根に伝わり、そしてついに防寨は占領された。八十人の「卑怯者」らのうちひとりとして逃げようとはしなかった。皆そこで戦死を遂げた。ただひとり首領のバルテルミーだけは身を脱したが、彼のことはすぐ次に述べるとおりである。
サン・タントアーヌの防寨は雷電のはためきであり、タンプルの防寨は沈黙であった。この二つの角面堡《かくめんほう》の間には獰猛《どうもう》と凄惨《せいさん》との差があった。一つは顎《あご》のごとく、一つは仮面のようだった。
この六月の巨大な暗黒な反乱が一つの憤怒と一つの謎《なぞ》とでできていたとすれば、第一の防寨のうちには竜《ドラゴン》が感ぜられ、第二の防寨の背後にはスフィンクスが感ぜられた。
この二つの砦《とりで》は、クールネとバルテルミーというふたりの男によって築かれたものである。クールネはサン・タントアーヌの防寨を作り、バルテルミーはタンプルの防寨を作った。どちらの防寨も、築造者の面影を帯びていた。
クールネは高い体躯《たいく》の男であった。大きな肩、赤い顔、力強い拳《こぶし》、大胆な心、公正な魂、まじめな恐ろしい目をそなえていた。勇敢で、元気で、激しやすく、猛烈だった。最も真実な男であり、最も恐るべき勇士だった。戦争、争闘、白兵戦、などは彼の固有の空気であり、彼の気を引き立たした。かつて海軍士官だったことがあり、その身振りや声をみても、大洋から出てき暴風雨を経てきたことが察せられた。彼は戦いのうちにもなお暴風をもたらした。神性を除いてはダントンのうちにヘラクレス的なものがあったように、天才を除いてはクールネのうちにダントン的なものがあった。
バルテルミーは、やせた、虚弱な、色の青い、寡黙《かもく》な男で、一種の悲壮な浮浪少年であった。ある時ひとりの巡査からなぐられて、その巡査をつけねらい、待ち受け、殺害し、そして十七歳で徒刑場に送られた。徒刑場から出てきた彼は、右の防寨《ぼうさい》を作ったのである。
その後彼らはふたりとも追放されてロンドンに亡命していたが、何の因縁か、バルテルミーはクールネを殺した。痛ましい決闘だった。その後しばらくして、色情のからんだある秘密な事件に巻き込まれ、フランスの法廷は情状の酌量を認むるがイギリスの法廷は死をしか認めないある災厄のうちに、バルテルミーは死刑に処せられた。一個の知力をそなえ確かに剛毅《ごうき》な人物でありまたおそらく偉大な人物だったかも知れないこの不幸な男は、社会の痛ましい制度の常として、物質上の欠乏のためにまた精神上の暗黒のために、フランスにおいて徒刑場より始め、イギリスにおいて絞首台に終わったのである。バルテルミーはいかなる場合にも、一つの旗をしか掲げなかった。それは黒い旗であった。
二 深淵《しんえん》中の会談
暴動の陰暗な教育を受くること満十六年に及んだので、一八四八年六月は一八三二年六月よりもはるかに知力が進んでいた。それでシャンヴルリー街の防寨は、上に概説した二つの巨大な防寨に比ぶれば、一つの草案に過ぎず一つの胎児に過ぎなかった。しかし当時にあっては、それでも恐るべきものであった。
マリユスはもはや何物にも注意を向けていなかったので、暴徒らはただアンジョーラひとりの監視の下に、暗夜に乗じて仕事をした。防寨は修繕されたばかりでなく、なお大きくされた。上の方へも二尺ほど高められた。舗石《しきいし》の中に立てられた鉄棒は、槍《やり》をつき立てたようだった。方々から持ってきて加えられたあらゆる種類の物の破片は、ますますその外部を錯雑していた。いかにも巧妙に築かれた角面堡《かくめんほう》で、内部は壁のごとく、外部は藪《やぶ》のようだった。
城壁のように上に上ってる舗石の段は、再び築き直された。
人々は防寨《ぼうさい》を整え、居酒屋の下の広間を片付け、料理場を野戦病院となし、負傷者に繃帯《ほうたい》を施し、床《ゆか》やテーブルの上に散らかってる火薬を集め、弾丸を鋳、弾薬をこしらえ、綿撒糸《めんざんし》を裂き、落ち散った武器を分配し、角面堡の内部を清め、破片を拾いのけ、死体を運んだ。
死体はなお手中にあるモンデトゥール小路のうちに積み重ねられた。そこの舗石はその後長い間まっかになっていた。戦死者のうちには、四人の郊外国民兵があった。アンジョーラは彼らの軍服をわきに取って置かした。
アンジョーラは二時間の睡眠を一同に勧めた。彼の勧告は命令に等しかった。けれどもその命に応じて眠った者は、わずか三、四人に過ぎなかった。フイイーはその二時間のすきを利用して、居酒屋と向かい合った壁の上に次のような銘を刻み込んだ。
民衆万歳[#「民衆万歳」に傍点]!
その四文字は、素石の中に釘《くぎ》で彫りつけたものであって、一八四八年にもなお壁の上に明らかに残っていた。
三人の女どもは、その夜間の猶予の間にまったく姿を隠してしまった。ために暴徒らはいっそう自由な気持ちになることができた。
彼女らはとやかくして、どこか近くの人家に投げ込んだのだった。
負傷者らの大部分は、なお戦うことができ、またそれを欲していた。野戦病院となった料理場の蒲団《ふとん》や藁蓆《わらむしろ》の上には、五人の重傷者がいたが、そのうちふたりは市民兵だった。市民兵は第一に手当を受けたのである。
下の広間のうちにはもはや、喪布をかけられてるマブーフと柱に縛られてるジャヴェルとのほかだれもいなかった。
「ここは死人の室《へや》だ。」とアンジョーラは言った。
室の内部、一本の蝋燭《ろうそく》がかすかに照らしてる奥の方に、死人のテーブルが横棒のようになってその前に柱が立っていたので、立ってるジャヴェルと横たわってるマブーフとは、ちょうど大きな十字架のようになって漠然《ばくぜん》と見えていた。
乗り合い馬車の轅《ながえ》は、一斉射撃《いっせいしゃげき》のために先を折られたが、なお旗を立て得るくらいは立ったまま残っていた。
首領の性格をそなえていて口にするところを必ず実行するアンジョーラは、戦死した老人の血にまみれ穴のあいてる上衣を轅の棒に結びつけた。
食事はいっさいできなかった。パンも肉もなかった。防寨《ぼうさい》の五十人の男は、やってきてからその時まで十六時間のうちに、居酒屋にあったわずかな食物をすぐに食いつく
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