れば、社会のあらゆるものがすべり込むこの真実の溝《どぶ》の中に落ちてゆき、そこにのみ込まれてしまう。しかしそこでは身を隠しはしない。それらの錯雑は一つの告白である。そこでは、偽りの外見もなく、何らの糊塗《こと》もなく、醜陋《しゅうろう》もそのシャツをぬぎ、まったくの裸となり、幻や蜃気楼《しんきろう》は崩壊し、用を終えしもののすごい顔つきをしながら、もはやただあるがままの姿をしか保たない。現実と堙滅《いんめつ》とのみである。そこでは、壜《びん》の底は泥酔を告白し、籠《かご》の柄は婢僕《ひぼく》の勤めを語る。そこでは、文学上の意見を持っていた林檎《りんご》の種は、再び単なる林檎の種となる。大きな銅貨の面の肖像は素直に緑青《ろくしょう》で蔽われ、カイファスの唾《つば》はフォルスタフの嘔吐物《おうとぶつ》と相会し([#ここから割り注]訳者注 前者はキリストを処刑せしユダヤの司祭、後者はジャンヌ・ダルクに敗られしイギリスの将軍[#ここで割り注終わり])、賭博場から来るルイ金貨は自殺者の紐《ひも》の端が下がってる釘《くぎ》と出会い、青白い胎児はこの前のカルナヴァル祭最終日にオペラ座で踊った金ぴか物に包まれて転々し、人々を裁いた法官帽は賤婦《せんぷ》の裳衣だった腐敗物の傍に沈溺《ちんでき》する。それは友愛以上であり、昵近《じっきん》である。脂粉を塗っていたものもすべて顔を汚す。最後の覆面も引きはがれる。下水道は一つの皮肉家である。それはすべてのことをしゃべる。
 不潔なるもののかかる誠実さは、吾人を喜ばせ吾人の心を休める。国家至上の道理、宣誓、政略、人間の裁判、職務上の清廉、地位の威厳、絶対に清い法服、などが装ういかめしい様子を、地上において絶えず見続けてきた後、下水道にはいってそれらのものにふさわしい汚泥《おでい》を見るのは、いささか心を慰むるに足ることである。
 それがまた同時に種々のことを教える。さきほど述べたとおり、歴史は下水道を通ってゆく。サン・バルテルミーのごときあらゆる非道は、鋪石《しきいし》の間から一滴一滴とそこにしたたる。公衆の大虐殺は、政治上および宗教上の大殺戮は、この文明の地下道を通って、そこに死骸《しがい》を投げ込んでゆく。夢想家の目より見れば、史上のあらゆる虐殺者らがそこにいて、恐ろしい薄暗がりの中に膝《ひざ》をかがめ、経帷子《きょうかたびら》の一片を前掛けとし、悲しげにおのれの所業をぬぐい消している。ルイ十一世はトリスタンと共におり、フランソア一世はデュプラーと共におり、シャール九世は母親と共におり、リシュリユーはルイ十三世と共におり、ルーヴォアも、ルテリエも、エベールも、マイヤールもおり、皆石を爪《つめ》でかきながら、おのれの行為の跡を消そうと努めている。それらの洞穴《どうけつ》の中には、幽鬼らの箒《ほうき》の音が聞こえる。社会の災害の大なる悪臭が呼吸される。片すみには赤い反映が見える。そこには血のしたたる手が洗われた恐ろしい水が流れている。
 社会観察者はそれらの影の中にはいらなければいけない。それらの影も社会実験室の一部をなす。哲学は思想の顕微鏡である。すべてはそれから逃げようと欲するが、何物もそれから脱することはできない。方々逃げ回ってもむだである。逃げ回りながら人はいかなる方面を示すか? 不名誉な方面をではないか。哲学は活眼をもって悪を追求し、虚無のうちにのがれ去るのを許さない。消滅する事物の塗抹《とまつ》のうちにも、消え失《う》する事物の縮小のうちにも、哲学はすべてを認知する。ぼろを再び緋衣《ひい》となし、化粧品の破片を再び婦人となす。汚水溝渠《おすいこうきょ》で都市を再び作り出し、泥土《でいど》で再び風俗を作り出す。陶器の破片を見ては、壺《つぼ》や瓶《びん》を結論する。羊皮紙の上の爪跡《つめあと》で、ユーデンガスのユダヤ居住地とゲットーのユダヤ居住地との差を見て取る。今残っているもののうちに、かつてありしものを見いだす、すなわち、善、悪、偽、真、宮殿内の血痕《けっこん》、洞窟《どうくつ》の墨痕《ぼくこん》、娼家《しょうか》の蝋《ろう》の一滴、与えられた苦難、喜んで迎えられた誘惑、吐き出された遊楽、りっぱな人々が身をかがめつつ作った襞《ひだ》、下等な性質のために起こる心のうちの汚涜《おどく》の跡、ローマの人夫らの短上衣にあるメッサリナ([#ここから割り注]訳者注 クラウディウス皇帝の妃にして淫乱で有名な女[#ここで割り注終わり])の肱《ひじ》の跡、などを見いだすのである。

     三 ブリュヌゾー

 パリーの下水道は、中世においては伝説的な状態にあった。十六世紀に、アンリ二世はその測量を試みたが、失敗に終わった。メルシエの立証するところによれば、今から百年足らず前までは、下水道はまったく放棄されていて、なるがままに任せられていた。
 そういうふうにこの古いパリーは、論議と不決定と模索とにすべて放任されていた。長い間かなり愚昧《ぐまい》のままであった。その後、八九年([#ここから割り注]一七八九年[#ここで割り注終わり])はいかにして都市に精神が出て来るかを示した。しかしいにしえにおいては、首府はあまり頭脳を持っていなかった。精神的にもまたは物質的にも自分の仕事を処理する道を知らず、弊害を除去することができないとともに汚物を除去することもできなかった。すべてが妨害となり、すべてが疑問となった。たとえば、下水道はまったく探査することができなかった。市中においては万事わけがわからないとともに、汚水だめの中においては方向を定めることができなかった。地上にては了解が不可能であり、地下にては脱出が不可能だった。言語の混乱の下には洞穴《どうけつ》の混乱があった。迷宮がバベルの塔と裏合わせになっていた。
 時とするとパリーの下水道は、あたかも軽視されたナイル川が突然憤ることがあるように、氾濫《はんらん》の念を起こすことがあった。きたならしいことではあるが、実際下水道の漲溢《ちょういつ》が幾度も起こった。時々この文明の胃袋は不消化に陥り、汚水は市の喉元《のどもと》に逆流し、パリーはその汚泥《おでい》を反芻《はんすう》して味わった。そしてかく下水道と悔恨との類似は実際有益だった。それは人に警告を与えた。しかしそれもかえって悪い意味にばかり取られた。市はその泥土の鉄面皮に腹を立てて、不潔が再び戻って来るのを許さなかった。なおいっそうよく追い払おうとした。
 一八〇二年の氾濫は、八十歳ほどになるパリー人が今もよく記憶している。汚水は、ルイ十四世の銅像があるヴィクトアール広場に縦横にひろがり、またシャン・ゼリゼーの下水道の二つの口からサン・トノレ街へはいり、サン・フロランタンの下水道からサン・フロランタン街へ、ソンヌリーの下水道からピエール・ア・ポアソン街へ、シュマン・ヴェールの下水道からポパンクール街へ、ラップ街の下水道からロケット街へはいった。シャン・ゼリゼーの石樋《いしどい》をおおうこと、三十五センチの高さにおよんだ。そして南の方は、セーヌ川への大水門から逆行して、マザリーヌ街やエショーデ街やマレー街まではいり込み、百九メートルの距離の所、ちょうどラシーヌが昔住んでいた家の数歩前の所で、ようやく止まった。十七世紀に対しては国王([#ここから割り注]ルイ十四世[#ここで割り注終わり])よりも詩人([#ここから割り注]ラシーヌ[#ここで割り注終わり])の方を尊敬したわけである。その深さはサン・ピエール街が最高で、水口の舗石《しきいし》の上三尺に達し、その広さはサン・サバン街が最高で、二百三十八メートルの距離にひろがった。
 十九世紀の初めにおいても、パリーの下水道はなお神秘な場所であった。およそ泥土《でいど》は決して令名を得るものではないけれども、当時はその悪名が恐怖を起こさせるほどに高かった。パリーは漠然《ばくぜん》と、自分の下に恐ろしい洞穴《どうけつ》があるのを知っていた。一丈五尺もある百足虫《むかで》が群れをなし、怪獣ベヘモスの浴場にもなり得ようという、テーベの奇怪な沼のように人々はそれを思っていた。下水掃除人らの長靴《ながぐつ》も、よく知られてるある地点より先へは決して踏み込まなかった。サント・フォアとクレキ侯とがその上で互いに親交を結んだというあの塵芥掃除人《じんかいそうじにん》の箱車が、下水道の中にそのまま空《あ》けられていた時代、それからあまり遠くない時代だったのである。下水道の浚渫《しゅんせつ》はまったく豪雨にうち任せてあったが、雨水はそれを掃除するというよりも閉塞《へいそく》することの方が多かった。ローマは汚水の溝渠《こうきょ》に多少の詩味を与えてゼモニエ([#ここから割り注]階段[#ここで割り注終わり])と呼んでいたが、パリーはそれを侮辱してトルー・プュネー([#ここから割り注]臭気孔[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。科学も迷信も同じ嫌悪《けんお》の情をいだいていた。臭気孔は、衛生にとっても伝説にとっても共に嫌悪《けんお》すべきものだった。大入道がムーフタールの下水道の臭い穹窿《きゅうりゅう》の下に閉じ込められていた。マルムーゼら([#ここから割り注]訳者注 ルイ十五世の時陰謀をはかった青年諸侯[#ここで割り注終わり])の死体はバリユリーの下水道に投ぜられていた。ファゴンの説によると、一六八五年の恐ろしい熱病は、マレーの下水道にできた大きな割れ目から起こったものとのことである。その割れ目は、一八三三年まで、サン・ルイ街の風流馬車の看板が出てる前の方に、大きく口を開いたままであった。またモルテルリー街の下水道の口は、疫病の出口として有名だった。一列の歯に似て先のとがった鉄棒の格子《こうし》がついてる様《さま》は、その痛ましい街路の中にあって、あたかも地獄の気を人間に吹きかける怪竜《かいりゅう》の口かと思われた。民衆の想像は、パリーの陰暗な下水道に、ある無窮的な恐ろしいことどもを付け加えていた。下水道は底なしであった。バラトロム([#ここから割り注]訳者注 アテネにて死刑囚を投げ込みし深淵[#ここで割り注終わり])であった。その恐ろしい腐爛《ふらん》の地域を探険しようという考えは、警察の人々にも起こらなかった。その未知の世界を検《しら》べること、その闇《やみ》の中に錘《おもり》を投ずること、その深淵《しんえん》の中に探査に行くこと、だれがそれをあえてなし得たろうか。それこそ戦慄《せんりつ》すべきことだった。けれども、やってみようという者もいた。汚水の溝渠《こうきょ》にもそのクリストフ・コロンブスがいた。
 一八〇五年のある日、例のとおり珍しく皇帝がパリーにやってきた時、ドゥクレスだったかクレテだったか時の内務大臣がやってきて、内謁《ないえつ》を乞うた。カルーゼルの広場には、大共和国および大帝国の偉大なる兵士らのサーベルの音が響いていた。ナポレオンの戸口は勇士らでいっぱいになっていた。ラインやエスコーやアディジェやナイルなどの戦線に立った人々、ジューベールやドゥゼーやマルソーやオーシュやクレベルらの戦友、フルーリュスの気球兵、マイヤンスの擲弾兵《てきだんへい》、ゼノアの架橋兵、エジプトのピラミッドをも見てきた軽騎兵、ジュノーの砲弾から泥《どろ》を浴びせられた砲兵、ゾイデルゼーに停泊してる艦隊を強襲して占領した胸甲兵、また、ボナパルトに従ってロディの橋を渡った者もおり、ムュラーと共にマントアの塹壕《ざんごう》中にいた者もおり、ランヌに先立ってモンテベロの隘路《あいろ》を進んだ者もいた。当時の軍隊はすべて、分隊または小隊で代表されて、テュイルリー宮殿の中庭に並び、休息中のナポレオンを護衛していた。大陸軍が過去にマレンゴーの勝利を持ち前途にアウステルリッツの勝利を控えてる燦然《さんぜん》たる時代だった。内務大臣はナポレオンに言った、「陛下、私は昨日帝国において最も勇敢な男に会いました。」「どういう男だ? そしてどういうことをしたのか、」と皇帝はせき込んで言った。「ある事をしたいと申すので
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