は目をさます。グランテールはびっくりして身を起こし、両腕を伸ばし、眼を擦《こす》り、あたりをながめ、欠伸《あくび》をし、そしていっさいを了解した。
 酔いのさめるのは、幕を切って落とすに似ている。人は一瞥《いちべつ》で一つかみに、酩酊《めいてい》が隠していたすべてを見て取る。万事が突然記憶に浮かんでくる。二十四時間の間に起こったことを少しも知らないでいる酔漢も、眼瞼《まぶた》を開くか開かないうちに事情を了解する。すべての観念は急に明るくなって蘇ってくる。酩酊《めいてい》の曇りは、頭脳を盲目になしていた一種の煙は、たちまち晴れて、明るい明瞭な現実の姿に地位を譲る。
 グランテールは片すみに押しやられ、球突台《たまつきだい》のうしろに隠れたようになっていたので、アンジョーラの上に目を据えていた兵士らは、少しも彼に気づかなかった。そして軍曹が「ねらえ」という命令を再び下そうとした時、突然兵士らの耳に、傍から強い叫び声が響いた。
「共和万歳! 吾輩《わがはい》もそのひとりだ。」
 グランテールは立ち上がっていた。
 参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然《さんぜん》たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。
 彼は「共和万歳!」と繰り返し、しっかりした足取りで室《へや》を横ぎり、アンジョーラの傍に立って銃口の前に身を置いた。
「一打ちでわれわれふたりを倒してみろ。」と彼は言った。
 そして静かにアンジョーラの方を向いて言った。
「承知してくれるか。」
 アンジョーラは微笑しながら彼の手を握った。
 その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。
 アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも弾で釘付《くぎづ》けにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれた。
 グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。
 それから間もなく兵士らは、家の上層に逃げ上がってる残りの暴徒らを駆逐しにかかった。彼らは本格子《ほんこうし》の間から屋根部屋の中に弾を打ち込んだ。屋根裏で戦いが始まった。死体は窓から投げ出されたが、中にはまだ生きてる者もあった。こわれた乗り合い馬車を起こそうとしていた軽歩兵のうちふたりは、屋根裏の窓から発射された二発のカラビン銃に仆《たお》された。労働服をつけたひとりの男は、腹に銃剣の一撃を受けて、その窓から投げ出され、地上に横たわって最後の呻《うめ》きを発した。ひとりの兵士とひとりの暴徒とは、瓦屋根の斜面の上にいっしょにすべり、互いにつかみ合った手を離さなかったので、獰猛《どうもう》な抱擁のまま地上にころげ落ちた。窖《あなぐら》の中でも同じような争闘が行なわれた。叫喚、射撃、猛烈な蹂躙《じゅうりん》、次いで沈黙が落ちてきた。防寨《ぼうさい》は占領されていた。
 兵士らは付近の人家を捜索し、逃走者を追撃し始めた。

     二十四 捕虜

 マリユスは実際捕虜になっていた。ジャン・ヴァルジャンの捕虜になっていた。
 倒れかかった時うしろから彼をとらえた手、意識を失いながらつかまれるのを彼が感じた手は、ジャン・ヴァルジャンの手であった。
 ジャン・ヴァルジャンはただそこに身をさらしてるというほかには、少しも戦闘に加わらなかった。しかし彼がもしいなかったならば、その最後の危急の場合において、だれも負傷者らのことを考えてくれる者はなかったろう。幸いにして、天恵のごとくその殺戮中の至る所に身を現わす彼がいたために、倒れた者らは引き起こされ、下の室《へや》に運ばれ、手当てをされた。間を置いて彼は常に防寨の中に現われてきた。しかし打撃や襲撃や、また一身の防御さえも、彼の手では少しもなされなかった。彼は黙々として人を救っていた。その上、彼はただわずかな擦過傷《かすりきず》を受けたのみだった。弾は彼にあたることを欲しなかった。彼がこの墳墓の中にきながら夢想していたものの一部が、もし自殺であったとしたならば、その点では彼はまったく不成功に終わった。しかし宗教に反する行ないたる自殺を彼が頭に浮かべていたかどうかは、われわれの疑いとするところである。
 ジャン・ヴァルジャンは濃い戦雲の中でマリユスを見るような様子はしていなかった。しかし実際は、マリユスから目を離さなかった。一発の弾がマリユスを倒した時、ジャン・ヴァルジャンは虎《とら》のごとく敏活に飛んでゆき、獲物につかみかかるように彼の上に飛びかかり、そして彼を運び去った。
 その時襲撃の旋風は、アンジョーラと居酒屋の戸口とを中心として猛烈をきわめていたので、気を失ってるマリユスを腕にかかえ、防寨《ぼうさい》の中の舗石《しきいし》のない空地を横ぎり、コラント亭の角《かど》の向こうに身を隠したジャン・ヴァルジャンの姿を、目に止めた者はひとりもなかった。
 岬《みさき》のように街路につき出ているその角の事を、読者は覚えているだろう。それにさえぎられて数尺の四角な地面は、銃弾も霰弾《さんだん》もまた人の視線をも免れていた。時としては、火災のまんなかにあって少しも焼けていない室《へや》があり、また荒れ狂ってる海の中にあって、岬の手前か袋のような暗礁の中に、少しの静穏な一隅《いちぐう》がある。エポニーヌが最後の息を引き取ったのも、防寨の四角な内部のうちにあるそういうすみにおいてであった。
 そこまで行って、ジャン・ヴァルジャンは立ち止まり、マリユスを地上におろし、壁に背を寄せて周囲を見回した。
 情況は危急をきわめていた。
 一瞬の間は、おそらく二、三分の間は、その一面の壁に身を隠すことができた。しかしこの殺戮《さつりく》の場所からどうして出たらいいか? 八年前ポロンソー街でなした苦心と、ついにそこを脱し得た方法とを、彼は思い出した。それはあの時非常に困難なことだったが、今はまったく不可能なことだった。前面には、七階建てのびくともしない聾《つんぼ》のような家があって、その窓によりかかってる死人のほかには住む人もないかのように見えていた。右手には、プティート・トリュアンドリーの方をふさいでるかなり低い防寨《ぼうさい》があった。その障壁をまたぎ越すのはわけはなさそうだったが、しかしその頂の上から、一列の銃剣の先が見えていた。防寨の向こうに配備されて待ち受けてる戦列歩兵の分隊だった。明らかに、その防寨を越すことはわざわざ銃火を受けに行くようなものであり、その舗石《しきいし》の壁の上からのぞき出す頭は、六十梃《ろくじっちょう》の銃火の的となるのだった。左手には戦場があった。壁の角の向こうには死が控えていた。
 どうしたらよいか?
 そこから脱し得るのはおそらく鳥のみであろう。
 しかも、直ちに方法を定め、工夫をめぐらし、決心を堅めなければならなかった。数歩先の所で戦いは行なわれていた。幸いなことには、ただ一点に、居酒屋の戸口に向かってのみ、すべての者が飛びかかっていた。しかし、ひとりの兵士が、ただひとりでも、家を回ろうという考えを起こすか、あるいは側面から攻撃しようという考えを起こしたならば、万事休するのだった。
 ジャン・ヴァルジャンは正面の家をながめ、傍の防寨をながめ、次には、狂乱の体になってせっぱつまった猛烈さで地面をながめ、あたかもおのれの目でそこに穴を明けようとしてるかと思われた。
 ながめてるうちに、深い心痛のうちにも漠然《ばくぜん》と認めらるる何かが浮き出してきて、彼の足下に一定の形を取って現われた。あたかも目の力でそこに望む物を作り出したかのようだった。すなわち数歩先の所に、外部からきびしく監視され待ち受けられてる小さな防寨《ぼうさい》の根本に、積まれた舗石《しきいし》の乱れてる下に半ば隠されて、地面と水平に平たく置かれてる鉄格子《てつごうし》を、彼は見つけたのである。その格子は、丈夫な鉄の棒を横に渡して作られたもので、二尺四方くらいの大きさだった。それを堅めてる周囲の舗石がめくられたので、錠をはずされたようになっていた。鉄棒の間からは、煖炉の煙筒か水槽の管のような暗い穴が見えていた。ジャン・ヴァルジャンは飛んでいった。昔の脱走の知識が、電光のように彼の頭に上がってきた。上に重なってる舗石をはねのけ、鉄格子を引き上げ、死体のようにぐったりとなってるマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肱《ひじ》と膝《ひざ》との力によって、幸いにもあまり深くない井戸のようなその穴の中におりてゆき、頭の上に重い鉄の蓋《ふた》をおろし、その上にまた揺らいでる舗石を自然にくずれ落ちてこさせ、地下三メートルの所にある舗石の面に足をおろすこと、それだけのことを彼は、あたかも狂乱のうちになすかのように、巨人の力と鷲《わし》の迅速《じんそく》さとをもってなし遂げた。わずかに数分間を費やしたのみだった。
 かくてジャン・ヴァルジャンは、まだ気を失ってるマリユスと共に、地下の長い廊下みたいなものの中に出た。
 そこは、深い静穏、まったくの沈黙、闇夜《やみよ》のみであった。
 昔街路から修道院の中に落ちこんだ時に感じた印象が、彼の頭に浮かんできた。ただ、彼が今になっているのは、コゼットではなくてマリユスであった。
 襲撃を受けてる居酒屋の恐ろしい騒擾《そうじょう》の響きも、今や漠然《ばくぜん》たるつぶやきの声のように、かすかに頭の上方に聞こえるきりだった。
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   第二編 怪物の腸


     一 海のために痩《や》する土地

 パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている、しかもこれは比喩《ひゆ》ではない。いかにしてまたいかなる方法でか? 否昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否何の目的もない。いかなる考えでか? 否何という考えもない。何ゆえにか? 否理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰《いわ》く、下水道。
 二千五百万という金額は、その方面の専門科学によって見積もられた概算のうちの最も低い額である。
 科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、われわれが汚穢《おわい》と称するところのものを二つの桶《おけ》にいっぱい入れ、それを竹竿《たけざお》の両端に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお陰で、支那の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒|蒔《ま》けば百二十粒得らるる。いかなる海鳥糞《かいちょうふん》も、その肥沃《ひよく》さにおいては都市の残滓《ざんさい》に比すべくもない。大都市は排泄物《はいせつぶつ》を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野を肥《こや》すならば、確かに成功をもたらすだろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。
 この肥料の黄金を人はどうしているか? 深淵《しんえん》のうちに掃きすてているのである。
 多くの船隊は莫大《ばくだい》な費用をかけて、海燕やペンギンの糞《ふん》を採りに、南極地方へ送り出される。しかるに手もとにある無限の資料は海に捨てられている。世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。
 標石のすみに積まれてる不潔物、夜の街路を通りゆく泥濘《でいねい》の箱車、塵芥《ごみ》捨て場のきたない樽《たる》、鋪石《しきいし》に隠されてる地下の臭い汚泥《おでい》の流れ、それらは何であるか? 花咲く牧場であり、緑の草であり、百里香や麝香草《じゃこうそう》や鼠尾草《たむらそう》であり、小鳥であり、家畜であり、夕方満足の声を立てる大きな牛であり、かおり高い秣《まぐさ》であり、金色の麦であり、食卓の上のパンであり、人の血管を流るるあたたかい血液であり、健康であり、喜悦であり、生命である。地にあ
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