ウンはワシントンよりも偉大であり、ピサカネはガリバルディよりも偉大である。
 敗者の味方もなければならない。
 未来を企図する偉大なる者らが失敗する時、人は彼らに対して、多く不正なる態度を取る。
 人は革命者らを非難するに、恐怖の念を散布することをもってする。防寨《ぼうさい》をすべて暴行と見做《みな》す。彼らの所説をとがめ、彼らの目的を疑い、彼らの内心を恐れ、彼らの良心を難ずる。現在の社会状態に対抗して、悲惨と苦悩と不正と悲嘆と絶望とをうずたかく引き起こし立て直し積み重ね、どん底から暗黒の石塊を引き出して、そこに銃眼を作り戦闘を始めることを、彼らに非難する。そして彼らに向かって叫ぶ、「汝らは地獄の舗石《しきいし》をめくってるのだ!」しかし彼らは答え得るであろう、「それはかえってわれわれの防寨が善良な意志で作られてる証拠である。」
 確かに最善の方法は平和のうちに解決することである。要するに吾人はかく承認する、舗石のめくられるのを見る時には人は熊を思い出す、そして社会が不安を覚ゆるのはかかる意欲に対してである。しかし社会の救済は、社会自身の考えによる。吾人が呼び起こさんとするのは、社会自身の意欲である。激越なる救治策は必要でない。好意をもって弊害を研究し、それは調べ上げ、次にそれを矯正すること、吾人が社会に勧めたいのはそれである。
 それはとにかくとして、世界各地のうちで特にフランスに目を据えて、理想の不撓《ふとう》なる理論をもって大業を果たさんために戦うそれらの人々は、たとい倒れても、またことに倒れたがゆえに、崇高たるのである。彼らはおのれの生命を進歩に対する純なる贈り物として投げ出す。天の意志を成就し、宗教的行為をなす。一定の時が来れば、台詞《せりふ》渡しの詩の俳優のような無私の心で、神の定めた筋書きに従って墳墓の中へはいってゆく。一七八九年七月十四日に不可抗力をもって始まった人類の大運動に、世界的な燦然《さんぜん》たる最上の結果をもたらさんがために、その希望なき戦いと堅忍なる消滅とを甘受する。かかる兵士らはすなわち牧師であり、フランス大革命はすなわち神の身振りである。
 そしてまた、他の章において既に指摘しておいた種々の区別のほかに、次の区別をも添加しておくが至当であろう、すなわち、革命と呼ばるる是認された反乱と、暴動と呼ばるる否認された革命とである。破裂したる一つの反乱は、民衆の前に試験を受くる一つの観念である。もし民衆が黒球を投ずれば、その観念はむだ花となり、反乱は無謀の挙となる。
 あらゆる機会に、高遠なる理想が欲するたびごとに、戦いのうちにはいるということは、民衆のよくなし得るところではない。国民は常住不断に英雄や殉教者の気質を持ってるものではない。
 国民は実際的である。先天的に反乱をいやがる。第一に、反乱は破滅に終わることが多いからであり、第二に、反乱の出発点は常に抽象的なものだからである。
 なぜかなれば、そしてこれはきわめてみごとなことであるが、献身者らが身をささげるのは常に理想のためであり、理想のみのためにである。反乱は一つの熱誠である。熱誠は憤怒することがあって、そのために武器を執るに至る。しかしあらゆる反乱は、一つの政府もしくは制度に射撃を向けるが、その目標は更に高い所に存する。たとえば、力説すべきことには、一八三二年の反乱の首領らが戦った目標は、ことにシャンヴルリー街の若い熱狂者らが戦っている目標は、必ずしもルイ・フィリップではなかった。打ち明けて言えば、彼らの大多数は、王政と革命との中間なるこの王の資格を、充分によく認めていた。王を憎む者は一人もなかった。彼らは昔シャール十世のうちにあるブールボン本家を攻撃したごとく、ルイ・フィリップのうちにあるブールボン分家を攻撃したのである。そしてフランスにおける王位をくつがえしつつ、更にくつがえさんと欲したところのものは、前に説明したとおり、人間に対する人間の専横と全世間の権利に対する一部の特権の専横とであった。パリーに王がなくなれば、その影響として世界に専制者がなくなる。そういうふうに彼らは考えていた。彼らの目的は、まさしく遠いものであり、おそらく漠然《ばくぜん》たるものであり、努力しても容易におよばないものだったが、しかし偉大なるものであった。
 まさしくそうである。そして人はそれらの幻想のために身を犠牲に供する。犠牲者らにとってはそれらの幻想はたいてい幻影に終わるけれども、しかも結局人間的な確信が交じってる幻影である。反徒は反乱を詩化し美化する。自分のなさんとする事柄に心酔しながら、その悲壮な事柄のうちに身を投ずる。結果はわかるものではない、あるいは成功するかも知れない。同志は少数であり、敵には全軍隊がいる。しかしまもるところのものは、権利、自然の大法、一歩も枉《ま》ぐることのできない各人の自己に対する主権、正義、真理、などである。そして場合によっては、三百人のスパルタ人([#ここから割り注]訳者注 テルモピレにおいてレオダニスに率いられし兵士[#ここで割り注終わり])のごとくに死するであろう。頭に浮かべるのは、ドン・キホーテのことではなくレオニダスのことである。そして彼らは前方に進んでゆく。一度踏み出せばもはや退くことをしない。頭をかがめてまっしぐらに突進する。希望として心にいだくところのものは、前代未聞の勝利、完成されたる革命、自由の手に託されたる進歩、人類の成長、世界の救済などである。またいかに失敗しようとも、結局テルモピレに過ぎない。
 進歩のためのかかる戦いは、しばしば失敗するものであって、その理由は上に述べきたったとおりである。群集は冒険騎士の誘導に従わない。重々しい集団は、多衆は、自身の重さのためにかえってこわれやすいものであって、冒険を恐れる。理想のうちには多少の冒険がある。
 その上、忘れてならないことには、利害の念もそこに交じってくる。利害の念は理想と情操とに親しみ難い。時としては、胃袋は心を麻痺《まひ》させる。
 フランスの偉大と美とは、他の民衆よりも腹に重きを置くことが少ないところにある。フランスは最も平然と自ら腰に麻繩《あさなわ》をまとう。最初に目ざめ、最後に眠る。まっすぐに前進する。実に一つの探求者である。
 それはフランスが芸術家だからである。
 理想は論理の頂点にほかならない。同様に、美は真なるものの頂にほかならない。芸術家たる民衆は、終始一貫する民衆である。美を愛することは光明を欲することである。それゆえに、ヨーロッパの炬火《たいまつ》は、換言すれば文化の炬火は、まずギリシャによって担《にな》われ、ギリシャはそれをイタリーに伝え、イタリーはそれをフランスに伝えた。光り輝く神聖なる民衆らよ! 彼らは生命のランプを人に伝う[#「彼らは生命のランプを人に伝う」に傍点]。
 賛美すべき事には、民衆の詩は民衆の進歩の要素である。文化の量は想像力の量によって測られる。ただし、文化の普及者たる民衆は強健なる民衆でなければならない。コリントはそうである。シバリスはそうでない。柔弱に陥るものは衰微する。愛好者であっても堪能者《たんのうしゃ》であってもいけない。ただ芸術家でなければならない。文化の事業においては、繊巧を事としてはいけない、ただ崇高を事としなければいけない。この条件において理想の雛型《ひながた》は人類に与えらるる。
 近代の理想は、その様式を芸術のうちに有し、その方法を科学のうちに有している。科学によってこそ、詩人の荘厳なる幻影すなわち社会的美は実現されるであろう。[#ここから横組み]A+B[#ここで横組み終わり] によってこそ、エデンの園は再び作られるであろう。文化が到達し得た現在の地点においては、正確は光彩の必要な一要素である。芸術的情操は、ただに科学的機能によって助けらるるばかりでなく、またそれによって完成される。夢も計算の上に立たなければならない。勝利者である芸術も、徒歩者たる科学を支柱としなければならない。足場の強固さが大切である。近代の精神は、インドの天才を馬車とするギリシャの天才である、象の上に乗ったるアレクサンデルである。
 独断的信条のうちに化石しもしくは利得のために堕落したる人種は、文化の嚮導者《きょうどうしゃ》としては不適当である。偶像もしくは金銭の前に跪坐《きざ》することは、歩行の筋肉と前進の意志とを萎縮《いしゅく》させる。祭儀の業もしくは商売の業に没頭することは、民衆の光を減じ、その水準を低めながらその水平線を低め、世界の目標たる人間的なるとともに神的なる知力、諸国民をして伝教師的たらしむるの知力を、民衆から奪い去る。バビロンは理想を持たず、カルタゴは理想を持たない。アテネとローマとは、数世紀間の暗黒時代を通じてもなお、文化の円光を有し維持する。
 フランスはギリシャおよびイタリーと同質の民衆である。美によってアテネ的であり、偉大によってローマ的である。その上にまた仁侠《にんきょう》である。フランスは自己を惜しまない。他の民衆よりもしばしば、献身と犠牲との心を起こす。ただその心があるいはきたり、あるいは去るだけである。かくて、フランスがただ歩くことをしか欲しない時に走る者、もしくはフランスが立ち上がらんと欲する時に歩く者、彼らにとっての大なる危険が生ずる。フランスは時に唯物主義に陥る。ある瞬間においては、その崇高なる頭脳を満たす観念は、もはやフランスの偉大さを思わせるものを少しも持たず、ミズーリ州や南カロライナ州くらいの大きさしか持たない。いかんせん、巨人は侏儒《しゅじゅ》の役を演じ、広大なるフランスは好奇にも些事《さじ》を事とする。策の施しようはない。
 それに対しては何も言うことはない。恒星のごとき民衆にも時におのれを蝕《しょく》するの権利がある。ただ、光が再び現われさえすれば、日蝕が暗夜に終わりさえしなければ、すべてかまわない。曙《あけぼの》と再生とは同意義である。光の再現は自我の存続と同一である。
 これらの事実をそのまま認定しようではないか。防寨《ぼうさい》の上に死するも、もしくは亡命のうちに倒るるも、それは時の事情による一つの献身として是認さるる。献身の真の名は、公平無私ということである。見捨てらるる者らをして見捨てられしめよ、国を追わるる者らをして追われしめよ。吾人はただ、偉大なる民衆が退く時には、その後退のあまりに大ならざらんことを希望するに止めよう。再び理性に返り得るというのを口実にしてあまりに深く下降してはいけない。
 物質は存在し、一時は存在し、利益は存在し、腹は存在する。しかし腹が唯一の英知であってはいけない。一時の生命もその権利を持っている、吾人はそれを是認する。しかし恒久の生命もまたその権利を持っている。ただ悲しいかな、高く上っていてもなお墜落することがある。その事実は史上に余りあるほど数多ある。卓越して理想を味わってる国民も、次に泥を噛《か》んでそれを甘しとする。そしてソクラテスを捨ててフォルスタフを取る理由を尋ねらるる時、彼は答える、為政家を好むからであると。
 白兵戦の物語に戻る前、なお一言しておきたい。
 今われわれが物語ってるような戦いは、理想を求むる一つの痙攣《けいれん》にほかならない。束縛されたる進歩は病いを得て、かかる悲壮な癲癇《てんかん》の発作をなす。この進歩の病いに、内乱に、吾人は途中で出会わざるを得なかったのである。社会的永罰を受けたる人物を軸とし進歩[#「進歩」に傍点]を真の表題とするこの劇においては、それは幕中にまた幕間に必ずいできたるべき一局面である。
 進歩[#「進歩」に傍点]!
 吾人がしばしば発するこの叫びこそ、吾人の考えのすべてである。一編の劇がここまできた以上は、中に含まってる観念はなお多くの試練を受くべきものであるとしても、今吾人は、よしやその帷《とばり》をまったく掲げることは許されないまでも、少なくともその光を明らかに透かし見せることだけはおそらく許されるであろう。
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