いますのよ。そしてもう、奥さんというのもやめ、ジャンさんというのもやめ、私どもは共和政治になり、みんなお前[#「お前」に傍点]と言うことにしましょう、ねえ、マリユス。番付けが変わったのよ。それからお父様、私はほんとに悲しいことがありましたの。壁の穴の中に駒鳥《こまどり》が一匹巣をこしらえていましたが、それを恐ろしい猫《ねこ》が食べてしまいました。巣の窓から頭を差し出していつも私を見てくれた、ほんとにかわいい小さな駒鳥でしたのに! 私泣きましたわ。猫を殺してやりたいほどでしたの。でもこれからは、もうだれも泣かないことにしましょう。みんな笑うんですわ、みんな幸福になるんですわ。あなたは私どもの所へいらっしゃいますでしょうね。お祖父《じい》様もどんなに御満足なさるでしょう。庭に畑を差し上げますから、何かお作りなさいましよ。あなたの苺が私の苺の相手になれるかどうか、競争をしてみましょう。それからまた、私は何でもあなたのお望みどおりにいたしましょう。そしてまた、あなたも私の言うことを聞いて下さいますのよ。」
ジャン・ヴァルジャンはそれをよく聞かないでただぼんやり耳にしていた。その言葉の意味よりむしろその声の音楽を聞いていた。魂の沈痛な真珠である大きな涙の一滴が、しだいに彼の目の中に宿ってきた。彼はつぶやいた。
「彼女がきてくれたことは、神が親切であらるる証拠だ。」
「お父様!」とコゼットは言った。
ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。
「いっしょに住むのは楽しいことに違いない。木には小鳥がいっぱいいる。私はコゼットと共に散歩する。毎日あいさつをかわし、庭で呼び合う、いきいきした人たちの仲間にはいる、それは快いことだろう。朝から互いに顔を合わせる。めいめい庭の片すみを耕す、彼女はその苺《いちご》を私に食べさせ、私は自分の薔薇《ばら》を彼女につんでやる。楽しいことだろう。ただ……。」
彼は言葉をとぎらして、静かに言った。
「残念なことだ。」
涙は落ちずに、元へ戻ってしまった。ジャン・ヴァルジャンは涙を流す代わりにほほえんだ。
コゼットは老人の両手を自分の両手に取った。
「まあ!」と彼女は言った、「お手が前よりいっそう冷たくなっています。御病気ですか。どこかお苦しくって?」
「私? いや、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は病気ではない。ただ……。」
彼は言いやめた。
「ただ、何ですの?」
「私はもうじきに死ぬ。」
コゼットとマリユスとは震え上がった。
「死ぬ!」とマリユスは叫んだ。
「ええ、しかしそれは何でもありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
彼は息をつき、ほほえみ、そしてまた言った。
「コゼット、お前は私に話をしていたね。続けておくれ。もっと話しておくれ。お前のかわいい駒鳥《こまどり》が死んだと、それから、さあお前の声を私に聞かしておくれ!」
マリユスは石のようになって、老人をながめていた。
コゼットは張り裂けるような声を上げた。
「お父様、私のお父様! あなたは生きておいでになります。ずっと生きられます、私が生かしてあげます、ねえお父様!」
ジャン・ヴァルジャンはかわいくてたまらないような様子で彼女の方へ頭を上げた。
「そう、私を死なないようにしておくれ。あるいはお前の言うとおりになるかも知れない。お前たちがきた時私は死にかかっていた。ところがお前たちがきたのでそのままになっている。何だか生き返ったような気もする。」
「あなたにはまだ充分力もあり元気もあります。」とマリユスは叫んだ。「そんなふうで死ぬものだと思っていられるのですか。いろいろ心配もあられましたでしょうが、これからもうなくなります。お許しを願うのは私の方です、膝《ひざ》をついてお願いします! お生きになれます、私どもといっしょに、そして長く、お生きになれます。あなたにまたきていただきます。私たちふたりが、あなたの幸福という一つの考えしかもう持っていない私たちふたりが、ここについております。」
「おわかりでしょう、」とコゼットは涙にまみれながら言った、「お死にはなさらないとマリユスも言っています。」
ジャン・ヴァルジャンはほほえみ続けていた。
「あなたが私をまた引き取って下すっても、ポンメルシーさん、それで私はこれまでと変わった者になるでしょうか。いや、神はあなたや私と同じように考えられて、決してその意見を変えられはしません。私が逝《い》ってしまうのはためになることです。死はよい処置です。神は、私どもがどうなればよいかを私どもよりよく知っていられます。あなたが幸福であられること、ポンメルシー氏がコゼットを得ること、青春は朝を娶《めと》ること、あなた方ふたりのまわりにはライラックの花や鶯《うぐいす》がいること、あなた方の生活は日の輝いた芝
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