私に彼女をお前と呼ばして下さい。わずかの間ですから。」
コゼットは言い出した。
「あんなに私共を見限ってしまうなんて、何という意地悪でしょう。いったいどこへいらしたの、何でこう長く行っていらしたの? 昔は、旅はいつも三、四日だけだったではありませんか。私はニコレットをやりましたが、いつもきまってお留守だという答えきりだったんですもの。いつからお戻りになっていましたの。なぜお知らせなさいませんでしたの。ほんとに様子も大変お変わりになっていますよ。まあ、悪いお父様ね! 御病気だったのでしょう、そして私どもにお知らせなさらなかったのでしょう。マリユス、この手にさわってみてごらんなさい、冷たいこと!」
「こうしてあなたもきて下すったのですね、ポンメルシーさん、あなたは私を許して下さるのですね!」とジャン・ヴァルジャンは繰り返した。
ジャン・ヴァルジャンが二度言ったその言葉に、マリユスの心にいっぱいたまっていたものが出口を得て、彼は急に言い出した。
「コゼット、聞いたか、この方《かた》はいつもこうだ、いつも僕に許しを求めなさる。しかも僕にどんなことをして下すったか、お前は知ってるか、コゼット。この方は僕の命を救って下すった。いやそれ以上をして下すった。お前を僕に与えて下すった。そして、僕を救って下すった後、お前を僕に与えて下すった後、コゼット、自分をどうされたか? 自分の身を犠牲にされたのだ。実にりっぱな方だ。しかも、その恩知らずの僕に、忘れっぽい僕に、無慈悲な僕に、罪人の僕に、ありがとうと言われる。コゼット、僕は一生涯この方の足下にひざまずいても、なお足りないのだ。あの防寨《ぼうさい》、下水道、熱火の中、汚水の中、それを通ってこられたのだ、僕のために、お前のために、コゼット! あの死ぬばかりの所を通って僕を運んできて下すった。僕を死から助け出し、しかも御自分は甘んじて生命を危険にさらされた。あらゆる勇気、あらゆる徳、あらゆる勇壮、あらゆる高潔、それらをすべて持っていられる。コゼット、この方こそ実に天使だ!」
「ま、まあ!」とジャン・ヴァルジャンは低く言った。「なぜそんなことを言われるのです。」
「だがあなたこそ、」とマリユスは崇敬の念のこもった奮激をもって叫んだ。「なぜそれを言われなかったのです? あなたも悪い。人の命を助けておいて、それを隠すなんて! その上になお、自分の素性を語るという口実の下に、自分自身を誹謗《ひぼう》なすった。実にひどいことです。」
「私は真実を申したのです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「いや、」とマリユスは言った、「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏であったのに、なぜそれを言われませんでした。あなたはジャヴェルを救ったのに、なぜそれを言われませんでした。私はあなたに命の恩になってるのに、なぜそれを言われませんでした。」
「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えはもっともだと思いました。私は去らなければいけなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引き止められたに違いありません。それで私は黙っていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、まったく困ることになったでしょう。」
「何が困るのです、だれが困るのです!」とマリユスは言った。「あなたはここにこのままおられるつもりですか。私どもはあなたをお連れします。ああ、偶然ああいうことを知った時のことを考えると! 是非とも私どもはあなたを連れてゆきます。あなたは私どもの一部です。あなたは彼女の父で、また私の父です。もう一日もこのひどい家で過ごされてはいけません。明日《あした》もここにいるなどと考えられてはいけません。」
「明日は、」とジャン・ヴァルジャンは言った。「私はもうここにいますまい、しかしあなたの家にもいますまい。」
「それはどういうことです?」とマリユスは答え返した。「ああそうですか、いやもう旅もお許ししません。もう私どものそばを離れられてはいけません。あなたは私どものものです。決してあなたを離しません。」
「こんどこそは是非そうします。」とコゼットも言い添えた。「下に馬車も待たしてあります。私あなたを連れてゆきます。やむを得なければ力ずくでもかついでゆきます。」
そして笑いながら彼女は、老人を両腕に持ち上げるような身振りをした。
「あなたのお室《へや》は、まだ私どもの家にそのままになっています。」と彼女は言い進んだ。「この頃はまあどんなに庭がきれいになったでしょう! 躑躅《つつじ》が大変みごとになりました。道には川砂を敷きましたし、菫色《すみれいろ》の小さな貝殻も交じっています。私の苺《いちご》も食べていただきましょう。私がそれに水をやって
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