あなたに申さなければならなかったのです。私の考えの筋はおわかりでしょう、容易にわかることです。私は九カ年以上も彼女といっしょにいたのです。私どもは初めは大通りの破家《あばらや》に住み、それから修道院に住み、次にリュクサンブールの近くに住んでいました。あなたが始めて彼女に会われたのはリュクサンブールでですね。彼女の青いペルシの帽を覚えておいでですか。それから私どもは、アンヴァリード街区に行きました。鉄門と庭とのある家です。プリューメ街です。私は小さな後庭の離れに住んでいて、そこからいつも彼女のピアノを聞いていました。それが私の生命でした。私どもは決して別々になったことはありませんでした。九年と何カ月か続いたのです。私は実の親のようであり、彼女は実の娘のようでした。あなたにもよくおわかりかどうか知りませんが、ポンメルシーさん、今立ち去ってしまい、もう彼女に会わず、もう彼女に言葉もかけず、まったく彼女を失ってしまうのは、実にたえ難いことです。もし悪いとお考えになりませんでしたら、私は時々コゼットに会いにきたいのです。たびたびは参りません。長居もいたしません。表の小さな室《へや》にきめていただいてもよろしいです。階下《した》の室ででもよろしいです。召し使い用の裏門から出入りしてもかまいません。しかしそれではかえって怪しまれましょう。やはり普通の表門からはいった方がよろしいでしょう。まったくのところ私は、なおコゼットに会いたいのです。どんなにまれにでもよろしいです。私の地位になって考えて下さい。私はそれ以外に何の望みもありません。それにまたもちろん用心もしなければなりません。私がまったくこなくなれば、かえって悪いことになり、人から不思議に思われるでしょう。で最も都合よくするには、夕方参った方がいいでしょう、夜になろうとする頃。」
「毎晩こられてもよろしいです。」とマリユスは言った。「コゼットにお待ちさせます。」
「御親切はありがたく思います。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
マリユスはジャン・ヴァルジャンにお辞儀をし、幸福は絶望を扉《とびら》の所まで送り出し、そしてふたりは別れた。
二 語られし秘密の中の影
マリユスの心は転倒してしまった。
コゼットのそばについてるその男に対して、彼がいつも感じていた一種のへだたりは、今や彼にも了解できた。その男の身には何となく謎《なぞ》のような趣があって、彼は本能からそれに気づいていたのである。謎というのは、最も忌まわしい汚辱、徒刑場だった。あのフォーシュルヴァン氏は徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであった。
幸福の最中に突然そういう秘密を知ることは、あたかも鳩《はと》の巣の中に蠍《さそり》を見いだすがようなものだった。
マリユスとコゼットとの幸福は、今後かかるものと隣《となり》しなければならないように定められていたのか。それはもう動かし難い事実だったのか。成立した結婚の一部としてその男を受け入れなければならなかったのか。もはやいかんともする道はなかったのか。
マリユスは徒刑囚ともまた離れ難い関係となったのか。
いかに光明や喜悦の冠をいただこうとも、人生の紅の時期を、幸福な愛を、いかに味わおうとも、それを忍ぶことができようか。かかる打撃は、恍惚《こうこつ》たる大天使をも、光栄に包まれたる半神をも、必ずや戦慄《せんりつ》させるであろう。
かかる限界の激変の常として、マリユスは自ら責むべき点はないかを顧みてみた。洞察《どうさつ》の明を欠いてはいなかったか。注意の慎重さを欠いてはいなかったか。いつとなくうっかりしてはいなかったか。おそらく多少その気味があったかも知れない。ついにコゼットとの結婚に終わったその恋愛事件のうちに、まず周囲のことを明らかにしないで、不注意にふみ込んでゆきはしなかったか。およそ吾人が生活から少しずつ改善されてゆくのは、吾人が自ら自身に対してなす一連の認定によってであるが、彼も今、自分の性質の空想夢幻的な一面を自認した。そういう一面は、多くの者が有する一種の内心の雲であって、熱情や悲哀の激発のうちにひろがってゆき、魂の気温に従って変化し、その人全体を侵し、その本心を霧に包んでしまうものである。われわれは前にしばしば、マリユスの個性のこの独特な要素を指摘しておいた。マリユスは今になってようやく思い起こした、自分の恋に酔いながらプリューメ街で、無我夢中になっていた六、七週間の間、あのゴルボーの破家《あばらや》における活劇のことを、争闘の間沈黙していて次に逃げ出すという不思議な行動を被害者が取ったあの活劇のことを、コゼットに一口も語らなかったのを。その事件を少しもコゼットに話さなかったというのは、どうしたことだろうか。ごく最近のことだったのに! テナルディエという名
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