なさるから、見ててごらんなさい。私は行ってしまいます、ようございます。」
 そして彼女は出て行った。
 二、三秒たつと、扉《とびら》はまた開いて、彼女の鮮麗な顔が扉《とびら》の間からも一度現われた。彼女はふたりに叫んだ。
「ほんとに怒っていますよ。」
 扉は再び閉ざされ、室《へや》の中は影のようになった。
 彼女が現われたのは、あたかも道に迷った太陽の光が、自ら気づかないで突然|闇夜《やみよ》を過《よ》ぎったがようなものだった。
 マリユスは扉が固く閉ざされたのを確かめた。
「かわいそうに!」と彼はつぶやいた、「コゼットがやがて知ったら……。」
 その一言にジャン・ヴァルジャンは全身を震わした。彼は昏迷《こんめい》した目でマリユスを見つめた。
「コゼット! そう、なるほどあなたはコゼットに話されるつもりでしょう。ごもっともです。だが私はそのことを考えていませんでした。人は一つの事には強くても、他の事にはそうゆかない場合があります。私はあなたに懇願します、哀願します、どうか誓って下さい、彼女には言わないと。あなたが、あなただけが、知っている、というので充分ではないでしょうか。私は他から強《し》いられなくとも自らそれを言うことができました。宇宙に向かっても、世界中に向かっても、公言し得るでしょう。私には結局どうでもいいことです。しかし彼女は、彼女には、それがどんなことだかわかりますまい。どんなにおびえるでしょう。徒刑囚、それが何であるかも説明してやらなければなりますまい。徒刑場にはいっていた者のことだ、とも言ってやらなければなりますまい。彼女は、かつて一鎖《ひとくさり》の囚人らが通るのを見たことがあります。ああ!」
 彼は肱掛《ひじか》け椅子《いす》に倒れかかり、両手で顔をおおうた。声は聞こえなかったが、肩の震えを見れば、泣いてるのが明らかだった。沈黙の涕泣《ていきゅう》、痛烈な涕泣だった。
 むせび泣きのうちには息のできないことがある。彼は一種の痙攣《けいれん》にとらえられ、息をするためのように椅子の背に身を反《そ》らせ、両腕をたれ、涙にぬれた顔をマリユスの前にさらした。そしてマリユスは、底のない深みに沈んでるかと思われる声で、彼が低くつぶやくのを耳にした。
「おお死にたい!」
「御安心なさい、」とマリユスは言った、「あなたの秘密は私だけでだれにももらしません。」
 そしてマリユスは、おそらく読者が想像するほど心を動かされてはいなかったであろうが、一時間ばかり前から意外な恐ろしいことにもなれてこざるを得なかったし、目の前で一徒刑囚の姿が徐々にフォーシュルヴァン氏の姿に重なってくるのを見、痛むべき現実にしだいにとらえられ、その場合の自然の傾向として、相手と自分との間にできたへだたりを認めざるを得ないようになって、こう言い添えた。
「私は、あなたが忠実にまた正直に返して下すった委託金について、一言も言わないではおられないような気がします。それは実に清廉な行ないです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額を定めて下さい、それだけ差し上げますから。いかほど多くとも御遠慮にはおよびません。」
「御親切は感謝します。」とジャン・ヴァルジャンは穏やかに答えた。
 彼はしばらく考え込んで、人差し指で親指の爪《つめ》を機械的にこすっていたが、やがて口を開いた。
「もうほとんど万事すんだようです。そして最後にも一つ残っていますが……。」
「何ですか。」
 ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇《ちゅうちょ》しながら、声という声も出さず、ほとんど息もしないで、言った、というよりむしろ口ごもった。
「すべてを知られた今となっては、御主人としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか。」
「その方がいいだろうと思います。」とマリユスは冷ややかに答えた。
「ではもう会いますまい。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
 そして彼は扉《とびら》の方へ進んでいった。
 彼はとっ手に手をかけ、閂子《かんぬき》ははずれ、扉は少し開いた。ジャン・ヴァルジャンは通れるくらいにそれを開き、ちょっと立ち止まり、それからまた扉をしめて、マリユスの方へ向き直った。
 彼はもう青ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。目にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の炎が宿っていた。その声は再び不思議にも落ち着いていた。
「ですが、」と彼は言った、「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所に留まっており、やはり続けて会いたいと思いますから、すべてを正直に
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