けいに見えてる古い寝台敷きが、絨毯《じゅうたん》の代わりにひろげられていた。
室の中は暖炉の火の輝きと窓からさす薄明りとで照らされてるのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは疲れていた。数日来食も取らず眠ってもいなかった。彼は肱掛け椅子の一つに身を落とした。
バスクが戻ってきて、点火《とも》した蝋燭《ろうそく》を一本暖炉の上に置き、また出て行った。ジャン・ヴァルジャンは首をたれ、頤《あご》を胸に埋めて、バスクにも蝋燭にも目を向けなかった。
突然彼は飛び上がるようにして身を起こした。コゼットが彼のうしろに立っていた。
彼は彼女がはいってくるのを見はしなかったが、その気配《けはい》を感じたのだった。
彼は振り向いて彼女をながめた。彼女はいかにもあでやかな美しさだった。しかし彼がその深い眼眸《ひとみ》でながめたのは、その美ではなくて魂であった。
「まあ、」とコゼットは叫んだ、「何というお考えでしょう! お父様、私あなたが変わったお方だとは知っていましたが、こんなことをなさろうとは思いもよりませんでしたわ。ここで私に会いたいとおっしゃるのだと、マリユスが申すのですよ。」
「そう、私から願ったことだ。」
「そうおっしゃるだろうと思っていました。ようございます。仕返しをしてあげますから。でもまあ最初のことからしましょう。お父様、私を接吻して下さいな。」
そして彼女は頬《ほお》を差し出した。
ジャン・ヴァルジャンは不動のままでいた。
「お動きなさいませんのね。わかりますよ。罪人のようですわ。でもとにかく許してあげます。イエス・キリストも言われました、他の頬をもめぐらしてこれに向けよと。さあここにございます。」
そして彼女は他の頬を差し出した。
ジャン・ヴァルジャンは身動きもしなかった。あたかもその足は床に釘《くぎ》付けにされてるがようだった。
「本気でそうしていらっしゃるの。」とコゼットは言った。「私あなたに何かしましたかしら。ほんとに困ってしまいますわ。私あなたに貸しがありますのよ。今日は私どもといっしょに御飯を召し上がって下さらなければいけません。」
「食事は済んでいる。」
「嘘《うそ》ですわ。私ジルノルマン様にあなたをしかっていただきますよ。お祖父様《じいさま》ならお父様を少したしなめることができます。さあ、私といっしょに客間にいらっしゃいよ、すぐに。」
「
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