だれも動く者はなかった。
「結婚した者および一家の支柱たる者は、列外に出たまえ!」とマリユスは繰り返した。
 彼の権威は偉大なものだった。アンジョーラはもとより防寨《ぼうさい》の首領であったが、マリユスは防寨の救済主であった。
「僕はそれを命ずる!」とアンジョーラは叫んだ。
「僕は諸君に願う!」とマリユスは言った。
 その時、コンブフェールの言葉に動かされ、アンジョーラの命令に揺られ、マリユスの懇願に感動されて、勇士らは、互いに指摘し始めた。「もっともだ。君は一家の主人じゃねえか。出るがいい。」とひとりの若者は壮年の男に言った。男は答えた。「むしろお前の方だ。お前はふたりの妹を養ってゆかなくちゃならねえんだろう。」そして異様な争いが起こった。互いに墳墓の口から出されまいとする争いだった。
「早くしなけりゃいけない。」とコンブフェールは言った。「もう十五、六分もすれば間《ま》に合わなくなるんだ。」
「諸君、」とアンジョーラは言った、「ここは共和である、万人が投票権を持っている。諸君は自ら去るべき者を選むがいい。」
 彼らはその言葉に従った。数分の後、五人の男が全員一致をもって指名され、列から前に進み出た。
「五人いる!」とマリユスは叫んだ。
 軍服は四着しかなかった。
「ではひとり残らなくちゃならねえ。」と五人の者は言った。
 そしてまた互いに居残ろうとする争いが、他の者に立ち去るべき理由を多く見いださんとする争いが始まった。寛仁な争いだった。
「お前には、お前を大事にしてる女房がいる。――お前には年取った母親《おふくろ》がいる。――お前には親父《おやじ》も母親もいねえ、お前の小さな三人の弟はどうなるんだ。――お前は五人の子供の親だ。――お前は生きるのが本当だ、十七じゃねえか、死ぬには早え。」
 それら革命の偉大な防寨《ぼうさい》は、勇壮の集中する所であった。異常なこともそこでは当然だった。勇士らはそれを互いに驚きはしなかった。
「早くしたまえ。」とクールフェラックは繰り返した。
 群れの中からマリユスに叫ぶ声がした。
「居残る者をあなたが指定して下さい。」
「そうだ、」と五人の者は言った、「選んで下さい。私どもはあなたの命令に従う。」
 マリユスはもはや自分には何らの感情も残っていないと思っていた。けれども今、死ぬべき者をひとり選ぶという考えに、全身の血は心臓
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